疑い
最近、仏に対する疑いがひどい。心の中がぐちゃぐちゃで自殺しそうになる。
懐疑、というのは本質的に苦しみなのだと思う。「私のことほんとに好きなの?」「お母さんってほんとに僕のお母さんなの?」という言葉には不安や苦しみが隠されている。
原理的に言って、何かに対する懐疑を100パーセントなしにすることはできない。明日太陽は昇るだろうが、隕石がぶち当たって太陽がなくなるかもしれない。けれどもそれを100パーセントとして生きているのが僕たちだ。明日死ぬかもしれないし恋人と結婚できないかもしれないし家族が死ぬかもしれないけどそんなことは100パーセントないと「信じて」いないと不安に苛まれる。けれどもこの世は無常なので「原理的に」100パーセント信じれるものなどない。
聖道門というのは、何も信じなくなる教えだ。釈尊は、悟ったら私の教えという筏も捨ててしまいなさいと言っている。クリシュナムルティの著作に「私は何も信じない」というのがあるが、何も信じないというのは、ある意味で不安のない生き方なのだろう。なぜなら裏切られないから。全てが無常の世の中で、なんらかの対象に執着する、言い換えれば期待する。それは絶対に苦しみを産む生き方だ。だから家族を捨てて出家して、何にも期待しない、何も信じない生活をする。不安はないだろう。
浄土門は「原理的に」100パーセント裏切られない教えなのだろう。そこに安心があるんだろう。
人間は何かを信じないと生きていけない。仕事、名誉、地位、異性。でも裏切られる。普通の無宗教の人間は、聖道門と浄土門の間に生きていると言っていい。中途半端なのだ。何もかも諦めるか、己を投げ捨てて100パーセント信じるか。
頑張っていきましょう。
懐疑、というのは本質的に苦しみなのだと思う。「私のことほんとに好きなの?」「お母さんってほんとに僕のお母さんなの?」という言葉には不安や苦しみが隠されている。
原理的に言って、何かに対する懐疑を100パーセントなしにすることはできない。明日太陽は昇るだろうが、隕石がぶち当たって太陽がなくなるかもしれない。けれどもそれを100パーセントとして生きているのが僕たちだ。明日死ぬかもしれないし恋人と結婚できないかもしれないし家族が死ぬかもしれないけどそんなことは100パーセントないと「信じて」いないと不安に苛まれる。けれどもこの世は無常なので「原理的に」100パーセント信じれるものなどない。
聖道門というのは、何も信じなくなる教えだ。釈尊は、悟ったら私の教えという筏も捨ててしまいなさいと言っている。クリシュナムルティの著作に「私は何も信じない」というのがあるが、何も信じないというのは、ある意味で不安のない生き方なのだろう。なぜなら裏切られないから。全てが無常の世の中で、なんらかの対象に執着する、言い換えれば期待する。それは絶対に苦しみを産む生き方だ。だから家族を捨てて出家して、何にも期待しない、何も信じない生活をする。不安はないだろう。
浄土門は「原理的に」100パーセント裏切られない教えなのだろう。そこに安心があるんだろう。
人間は何かを信じないと生きていけない。仕事、名誉、地位、異性。でも裏切られる。普通の無宗教の人間は、聖道門と浄土門の間に生きていると言っていい。中途半端なのだ。何もかも諦めるか、己を投げ捨てて100パーセント信じるか。
頑張っていきましょう。
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