誠実さ
浄土真宗に帰すれども真実の心はありがたし虚仮不実のわが身にて清浄のこころもさらになし—————親鸞
今日、僕は、自分の語ること、考えることが、皆目嘘八百にしか感ぜられぬのだ。—————原口統三
「誠実さ」についてだが、おそらく誰も十分に誠実であったことはない。—————ニーチェ
善行をしたあとで(あるいは芸術作品を作ったあとで)感じる自己満足は、高級なエネルギーの堕落である。だから、右手は、知ってはならない————シモーヌ・ヴェイユ
誠実さについて生き抜いた四人を抜き出してみた。原口統三は、誠実になりきれないために自殺をした。これは立派な道であるが、僕は取らない。
ニーチェは「真理」すらも食いつくす「知的誠実さ」を突き詰めたが、それは己の心臓にも牙をむいた。自分の心理でさえ徹底的に認識して、文字にして、生きて、また認識して、文字にして、生きる。ニーチェは生は認識の道具だと言っている。ただ僕にそんなエネルギーはない。ニーチェは発狂して死んだ。
ヴェイユは、誠実になろうとして、不幸を選んだ。「慰め」や「報い」を一切否定する「不在の神」を信仰することによって、自らの中に、「真空」を作った。誰かに攻撃されたときに許したり、無償の善を行うことで真空ができる。ただそれは人間にできることではない。聖者になりきれなかった女と言ってもいいだろう。彼女は不幸すぎた。
親鸞は、自らの不誠実さが「どうにもならない」と認識することによって、仏智を得た。つまり信仰をした。自らの「どうにもならなさ」を認識することを機(心)の深心という。この機の深心と法(救い)の深心は同時に起きるという。つまり自分の「どうにもならなさ」を信知することによって、己を「見限り」、救いに全託できるようになる。
原口統三は、青二才の道であると思う。ニーチェは哲学の道で、ヴェイユは聖者への道だ。親鸞は信仰への道である。ニーチェの言うように、「おそらく誰も十分に誠実であったことはない」のだろう。だから僕は「どうにもならなさ」を自覚して、その奥の道を掘り進んでいった、親鸞が一番深い思想家だと思うのである。
今日、僕は、自分の語ること、考えることが、皆目嘘八百にしか感ぜられぬのだ。—————原口統三
「誠実さ」についてだが、おそらく誰も十分に誠実であったことはない。—————ニーチェ
善行をしたあとで(あるいは芸術作品を作ったあとで)感じる自己満足は、高級なエネルギーの堕落である。だから、右手は、知ってはならない————シモーヌ・ヴェイユ
誠実さについて生き抜いた四人を抜き出してみた。原口統三は、誠実になりきれないために自殺をした。これは立派な道であるが、僕は取らない。
ニーチェは「真理」すらも食いつくす「知的誠実さ」を突き詰めたが、それは己の心臓にも牙をむいた。自分の心理でさえ徹底的に認識して、文字にして、生きて、また認識して、文字にして、生きる。ニーチェは生は認識の道具だと言っている。ただ僕にそんなエネルギーはない。ニーチェは発狂して死んだ。
ヴェイユは、誠実になろうとして、不幸を選んだ。「慰め」や「報い」を一切否定する「不在の神」を信仰することによって、自らの中に、「真空」を作った。誰かに攻撃されたときに許したり、無償の善を行うことで真空ができる。ただそれは人間にできることではない。聖者になりきれなかった女と言ってもいいだろう。彼女は不幸すぎた。
親鸞は、自らの不誠実さが「どうにもならない」と認識することによって、仏智を得た。つまり信仰をした。自らの「どうにもならなさ」を認識することを機(心)の深心という。この機の深心と法(救い)の深心は同時に起きるという。つまり自分の「どうにもならなさ」を信知することによって、己を「見限り」、救いに全託できるようになる。
原口統三は、青二才の道であると思う。ニーチェは哲学の道で、ヴェイユは聖者への道だ。親鸞は信仰への道である。ニーチェの言うように、「おそらく誰も十分に誠実であったことはない」のだろう。だから僕は「どうにもならなさ」を自覚して、その奥の道を掘り進んでいった、親鸞が一番深い思想家だと思うのである。
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