自然法爾
細川巌師は「自力とは仏教用語で、自己中心のことを申します。そこでこの水の流れ、これを法流といいます。具体的には本願でございますが仏法の流れ、その流れの中に自分がひたりきって生きていく。その流れの中に入りその流れを受けていきますと、ついにその心棒のさびがおちると同時に水車が廻りはじめる。」と例えている。言いえて妙だなと思う。
真宗の用語を使わずに書いてみよう。「真理」というものがある。けれども人間というものは思いあがったもので、「真理」を無にしようという「はからい」を持っている。だから、「真理」のほうが「愛」を注いで、人間の「はからい」をぶち抜いて洗おうとするのだけれど、それでもなかなか人間は「真理」に出会うことができない。真理にぶち抜かれることができない。それだけ人間の思い上がりは強い。
真理から愛が流出する。それを聞いているうちに、川の中のコケがはがれるように、ぽろ、ぽろ、と自分の「思い」がはがれていく。
仏教用語で真理のことを「法」という。法則という意味だ。真理から愛が流出するのは法則であって、リンゴが木から落ちるのと同じだ。それに抵抗する「汚れ」がぺりぺりと剥がれて、真理に順ずることができるようになること。真理が自分の汚い胸をぶち抜くこと。これが人間の「自然」であるのだと思う。以前、僕は宗教は「事実」だ、と書いたことがあるが、今は「自然」であるなあ、と思う。
真宗の用語を使わずに書いてみよう。「真理」というものがある。けれども人間というものは思いあがったもので、「真理」を無にしようという「はからい」を持っている。だから、「真理」のほうが「愛」を注いで、人間の「はからい」をぶち抜いて洗おうとするのだけれど、それでもなかなか人間は「真理」に出会うことができない。真理にぶち抜かれることができない。それだけ人間の思い上がりは強い。
真理から愛が流出する。それを聞いているうちに、川の中のコケがはがれるように、ぽろ、ぽろ、と自分の「思い」がはがれていく。
仏教用語で真理のことを「法」という。法則という意味だ。真理から愛が流出するのは法則であって、リンゴが木から落ちるのと同じだ。それに抵抗する「汚れ」がぺりぺりと剥がれて、真理に順ずることができるようになること。真理が自分の汚い胸をぶち抜くこと。これが人間の「自然」であるのだと思う。以前、僕は宗教は「事実」だ、と書いたことがあるが、今は「自然」であるなあ、と思う。
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