信仰 偶像崇拝
信仰について話していると、結構な割合の人が「神様とかは信じてないけど、みんなそれ以外のものを信じているんじゃない?恋人とか、仕事とか、アニメとか」と言ってくる。これを偶像崇拝と呼ぶ。
偶像崇拝している人間は、その偶像によって世界を意味付けようとする。例えば恋人が偶像の人は、恋人の愛を勝ち取るのが人生の究極の目的になり、恋人という他者、友人という他者、世界そのもの、そして自己、というものが全て恋人という偶像に収れんしていく。ここでの究極の目的の恋人ですら、自分が意味づけた観念でしかないので、カントのいう「人格は手段にしてはならない、目的にするべきである」から外れる。ラッドウィンプスの歌詞に「生まれて初めての宗教が君です」というのがあるが、恋人を「神」にすると、恋人が中心の観念世界が自分の周りに構築されて、極めて自閉的な世界に住むことになる。全ては「自己が恋人のために意味付けた世界」に過ぎず、そこに自由はない。夢の中に住んでいると言ってもいいだろう。
例えば阿弥陀仏に帰依するとはどういうことか。それは自分が意味づけた世界に住むことはでないし、阿弥陀仏が意味づけた世界に住むことでもないと思う。阿弥陀仏は何も命令しない。そして、絶対者に帰依することで、特定の相対的なものへの偶像崇拝がなくなる。何かを「崇拝」して、それを中心に世界を意味づけるということがなくなる。そうすれば本当の意味で、「自由」になることができ、他者を「自分の世界観の意味付け」として見るのではなくて、一人の人格として見ることができるようになると思う。宗教はアヘンだとか言われているが、偶像崇拝をして自閉している世界が「夢」で、「絶対」に帰依して強度の自閉的な意味付けから解放された世界が「現実」なのだと思う。信仰とは、酔うことではなく、覚めることなのだ。
歎異抄の「念仏者は無碍の一道なり。」という言葉は、僕はこういう風に味わう。
偶像崇拝している人間は、その偶像によって世界を意味付けようとする。例えば恋人が偶像の人は、恋人の愛を勝ち取るのが人生の究極の目的になり、恋人という他者、友人という他者、世界そのもの、そして自己、というものが全て恋人という偶像に収れんしていく。ここでの究極の目的の恋人ですら、自分が意味づけた観念でしかないので、カントのいう「人格は手段にしてはならない、目的にするべきである」から外れる。ラッドウィンプスの歌詞に「生まれて初めての宗教が君です」というのがあるが、恋人を「神」にすると、恋人が中心の観念世界が自分の周りに構築されて、極めて自閉的な世界に住むことになる。全ては「自己が恋人のために意味付けた世界」に過ぎず、そこに自由はない。夢の中に住んでいると言ってもいいだろう。
例えば阿弥陀仏に帰依するとはどういうことか。それは自分が意味づけた世界に住むことはでないし、阿弥陀仏が意味づけた世界に住むことでもないと思う。阿弥陀仏は何も命令しない。そして、絶対者に帰依することで、特定の相対的なものへの偶像崇拝がなくなる。何かを「崇拝」して、それを中心に世界を意味づけるということがなくなる。そうすれば本当の意味で、「自由」になることができ、他者を「自分の世界観の意味付け」として見るのではなくて、一人の人格として見ることができるようになると思う。宗教はアヘンだとか言われているが、偶像崇拝をして自閉している世界が「夢」で、「絶対」に帰依して強度の自閉的な意味付けから解放された世界が「現実」なのだと思う。信仰とは、酔うことではなく、覚めることなのだ。
歎異抄の「念仏者は無碍の一道なり。」という言葉は、僕はこういう風に味わう。
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