論理について
ブログのお題を貰った。
僕は論理というものを信用していない。アリストテレスが論理学を作って、それがキリストスコラ哲学に使われたり、イスラムスコラ哲学に使われたり、普遍性はあるのだろうけれど、というか人間の思惟の形式がそうなっている限り、未開人でもない限り論理というのは誰も抗えないものである。僕は哲学というのは論理を積み重ねて真理を探究するものだと思っているけれど、それは主にヨーロッパ人の性癖に過ぎないと思う。論理は確かに普遍性がある。けれども「論理で真理を探究したい」という欲求は普遍性がない。そのヨーロッパ中心主義を批判しようとしていたのがデリダなどのポストモダンなんだろうけれど、帝国主義的、ヨーロッパ主義的な論理至上主義に、支離滅裂な論理の文章をぶつけるという手法はあんまりうまくないと思う。
僕は真理というのは、例えば老師のいうタオ、のようなものだと思う。禅のいう悟りのようなものだと思う。「道というのは、これまで言われてきた道ではない。名も従来の名ではない。天地の始まりには何も無かった。だから無名である。天地に万物が生まれ、それぞれに名が付けられた。有名である。したがって有名は万物の母である。 故に無は常にその奥深き妙を見せ、有は常に無との境を見せる。此の両者は同じ所から出て名を異にしているだけだ。どちらも玄妙で、玄のまた玄は見通せないほど深遠なものである」
「言葉がない場所」という「絶対」が真理であると思う。だから、論理をいくら重ねても、絶対にはたどり着かない。ただ、論理を梯子にして、言葉のない場所に行くことはできると思う。それは前期ウィトゲンシュタインだったり龍樹の思想だったりする。
僕は論理というものを信用していない。アリストテレスが論理学を作って、それがキリストスコラ哲学に使われたり、イスラムスコラ哲学に使われたり、普遍性はあるのだろうけれど、というか人間の思惟の形式がそうなっている限り、未開人でもない限り論理というのは誰も抗えないものである。僕は哲学というのは論理を積み重ねて真理を探究するものだと思っているけれど、それは主にヨーロッパ人の性癖に過ぎないと思う。論理は確かに普遍性がある。けれども「論理で真理を探究したい」という欲求は普遍性がない。そのヨーロッパ中心主義を批判しようとしていたのがデリダなどのポストモダンなんだろうけれど、帝国主義的、ヨーロッパ主義的な論理至上主義に、支離滅裂な論理の文章をぶつけるという手法はあんまりうまくないと思う。
僕は真理というのは、例えば老師のいうタオ、のようなものだと思う。禅のいう悟りのようなものだと思う。「道というのは、これまで言われてきた道ではない。名も従来の名ではない。天地の始まりには何も無かった。だから無名である。天地に万物が生まれ、それぞれに名が付けられた。有名である。したがって有名は万物の母である。 故に無は常にその奥深き妙を見せ、有は常に無との境を見せる。此の両者は同じ所から出て名を異にしているだけだ。どちらも玄妙で、玄のまた玄は見通せないほど深遠なものである」
「言葉がない場所」という「絶対」が真理であると思う。だから、論理をいくら重ねても、絶対にはたどり着かない。ただ、論理を梯子にして、言葉のない場所に行くことはできると思う。それは前期ウィトゲンシュタインだったり龍樹の思想だったりする。
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