100億年後 シオラン
世には、人間の所業から、重みも効力も剥ぎ取ってしまうような認識力というものがある。この認識力からすれば、みずから以外は一切のものが基底を欠いている。客体を、その観念に至るまで忌み嫌うほど、この認識力は純一だ。ひとつの行為を敢行するもしないも、所詮は同じことと観ずる極限の知をそれは具現しているのだが、この極限の知にはまた極限の満足感が付随している。つまり、ことあるごとに、人間がいかなる業を演じて見せようと、執着に値するものは一つとしてない、なにがしかの実質の名残りに恵まれるものはどこにもない、実在などは狂人の管轄に属するものだ、といってのける満足感である。こんな認識力は、死後のものだといわれても仕方があるまい。つまりこの認識力の行使者は、生者であると同時に死者でもあり、存在者であると同時に存在者の追憶の影でもあるかのようなのだ。自分が遂行するあらゆる事柄について、この認識者は、行為を遂行している最中から、「それはもう過ぎたことだ」という。だから彼の行為は永久に現在を奪われ続けるのである。—————シオラン
父親と喧嘩したときに、ヤケになって「100年後になったらどうせみんな死んでいる、生きている意味が分からない」と言ったら、「100年後はまだ子孫がいるし、会社もあるかもしれない、何かを残せれば、生きてる意味はある」と言われたので「100億年後には地球は跡形もなくなって人類はみんな滅亡する」と言ったら「100億年後のことなんかどうでもいい。自分と全く関係がない」と言われた。
僕は自分の人生を100億年後から見ている。僕がもし今から投資の勉強をして、5億円稼いでも、100億年後には何も残っていない。僕がもしとち狂って子供を作っても、100億年後には何も残ってない。僕が大才能を発揮して、彫刻、絵画、詩、哲学、文学、なんでもいい、何かの作品を残したとしても、100億年後には何も残っていない。哲学書を読みまくってついに真理を見つけても、100億年後には何も残っていない。僕がたった今自殺しても、100億年後には何も残っていない。
「100億年後」に眼がついている。僕には眼が3つある。顔についている2つの眼と、100億年後から今を眺める眼がある。この文章も、100億年後には何も残らない。
ニヒルだ。けれど僕は100億年後にも残るものを見つけた。それは名号である。南無阿弥陀仏である。南無阿弥陀仏は100億年後にも残っている。奥華子の歌の歌詞に「変わらないもの 探していた」というのがあるがまさにそうで、僕は100億年後の眼から見ても変わらないものを探していた。見つかったので、僕はもう満足だ。僕は、シオランという人が嫌いだった。でも今では、「そうだよなあ、わかるよ」と読んでいたら落ち着くような作家になった。信仰心を持つことで、僕はもうシオランを通り過ぎた。シオランは「私が信仰を持つことになっても、いつ信仰を失うかびくびくしてまともに生活できないだろう」と書いていたが、名号はなくならない。名号が、100億年後にもあれば、僕はそれでいい。一遍上人は、名号が往生すると言っていた。それもまたいい。僕は、安心している。

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