笑えないもの
「しかし批評することは、どこまで行っても自己を許すことである。つまり自己自身を批判する最も厳しい眼をもつことは、生きている間は不可能である。―———二十歳のエチュード」
自意識が強い人がいる。何をやっても他人からの目線を気にしたり、自分でメタ認知をしてしまう。
サルトルは著作で信仰の不可能性を説いた。何かを「信じる」ということには「信じている」「と思っている」という対自的な意識が付け加わるので、信仰はその時点で意識に晒されて、崩壊する。
何事にもメタ認知を取り続けるというのはシニカルと言ってもいいし、僕はそれをあえてニヒリズムと呼びたいが、それはどこまでも自分の足場を持たないことだ。自己すら信じられないということだ。「私は〇〇だと思っている」と思っている」という時点で自己の思想すら「対象化」の餌食になり、嘲弄の対象となる。「言及」というのは「対象化」と同じ意味で、他人の思想や言葉に「言及」することで、自分を一つ上のメタレベルに置くことができて、そうして自我が固くなっていく。しかし自分の足場はない。
「笑えないもの」を世界に導入すること。「真剣にならざるをえないもの」「聖なるもの」を世界に導入すること。何事も「対象化」して冷たく笑うしかないニヒリストには、この薬しかない。
自意識が強い人がいる。何をやっても他人からの目線を気にしたり、自分でメタ認知をしてしまう。
サルトルは著作で信仰の不可能性を説いた。何かを「信じる」ということには「信じている」「と思っている」という対自的な意識が付け加わるので、信仰はその時点で意識に晒されて、崩壊する。
何事にもメタ認知を取り続けるというのはシニカルと言ってもいいし、僕はそれをあえてニヒリズムと呼びたいが、それはどこまでも自分の足場を持たないことだ。自己すら信じられないということだ。「私は〇〇だと思っている」と思っている」という時点で自己の思想すら「対象化」の餌食になり、嘲弄の対象となる。「言及」というのは「対象化」と同じ意味で、他人の思想や言葉に「言及」することで、自分を一つ上のメタレベルに置くことができて、そうして自我が固くなっていく。しかし自分の足場はない。
「笑えないもの」を世界に導入すること。「真剣にならざるをえないもの」「聖なるもの」を世界に導入すること。何事も「対象化」して冷たく笑うしかないニヒリストには、この薬しかない。
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