暗闇
8歳のころに、「死」の意識が襲ってきたのも、布団の暗闇の中だった。
最近井筒俊彦の「意識と本質」を数年ぶりに再読しているんだけれど、禅の悟りの構造がめちゃくちゃ分かりやすく構造化されている。僕たちは普段、コップや自己などを、「それ自体」あるものとして、つまりそれらの「本質」を仮定して生きているわけだけれど、大乗仏教はそれを「空」だと言う。山は山ではない。川は川ではない。リンゴはリンゴではない。
最初に分別意識がある。これはリンゴをリンゴとしてみる意識だ。そして座禅や公案などで修行をすると、無分別意識、リンゴの「リンゴ性」がない世界へ出ることができる。「コトバ」による分別(妄念)がなくなる。これを分別意識から無分別意識への修行だとすると、もう一段階禅には修行がある。あちらからこちらへ帰って来なければならない。分別意識@→無分別意識→分別意識Aと進んでいく。@は、全てのものに「本質」という幻が見えている。無分別意識によって、それを迷妄だと見抜き、Aに至ることで迷妄を迷妄と知った上で生きることができる。これが禅のプロセスらしい。
全てのものは実体がない幻だと見抜いて生きること。これが禅であるらしい。
だから、僕は(本当は)実体がないから死なない。それでいいのか?
意識というものがある。電球と同じで、明るくなったり、暗くなったりする。僕は死というより、この圧倒的な「暗闇」が怖いのだと思う。僕は生まれつき視力が悪く、自分が失明することを異常に恐れてた時期があるのだけれど、暗闇が異常に怖い。この意識の電球が消えるのは、悟ってもどうにもならなくないか。僕は永遠の暗闇が怖い。
僕は死をずっと「黒」だとイメージしていたけれど、友達は「白」とイメージしていると言っていた。だから友達にとって死は救いなのかもしれない。
怖い!永遠の眠りが怖い。悟っても永遠に眠る時は来る。その暗闇が怖い。どこかで意識がぶつ切りになって、一生真っ暗。
ところで、阿弥陀仏は「無限の光」という名前の仏である。トラックにひかれて急に死んでも、ずっと意識は光のままである。南無不可思議光如来。
最近井筒俊彦の「意識と本質」を数年ぶりに再読しているんだけれど、禅の悟りの構造がめちゃくちゃ分かりやすく構造化されている。僕たちは普段、コップや自己などを、「それ自体」あるものとして、つまりそれらの「本質」を仮定して生きているわけだけれど、大乗仏教はそれを「空」だと言う。山は山ではない。川は川ではない。リンゴはリンゴではない。
最初に分別意識がある。これはリンゴをリンゴとしてみる意識だ。そして座禅や公案などで修行をすると、無分別意識、リンゴの「リンゴ性」がない世界へ出ることができる。「コトバ」による分別(妄念)がなくなる。これを分別意識から無分別意識への修行だとすると、もう一段階禅には修行がある。あちらからこちらへ帰って来なければならない。分別意識@→無分別意識→分別意識Aと進んでいく。@は、全てのものに「本質」という幻が見えている。無分別意識によって、それを迷妄だと見抜き、Aに至ることで迷妄を迷妄と知った上で生きることができる。これが禅のプロセスらしい。
全てのものは実体がない幻だと見抜いて生きること。これが禅であるらしい。
だから、僕は(本当は)実体がないから死なない。それでいいのか?
意識というものがある。電球と同じで、明るくなったり、暗くなったりする。僕は死というより、この圧倒的な「暗闇」が怖いのだと思う。僕は生まれつき視力が悪く、自分が失明することを異常に恐れてた時期があるのだけれど、暗闇が異常に怖い。この意識の電球が消えるのは、悟ってもどうにもならなくないか。僕は永遠の暗闇が怖い。
僕は死をずっと「黒」だとイメージしていたけれど、友達は「白」とイメージしていると言っていた。だから友達にとって死は救いなのかもしれない。
怖い!永遠の眠りが怖い。悟っても永遠に眠る時は来る。その暗闇が怖い。どこかで意識がぶつ切りになって、一生真っ暗。
ところで、阿弥陀仏は「無限の光」という名前の仏である。トラックにひかれて急に死んでも、ずっと意識は光のままである。南無不可思議光如来。
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