頭を下げる たかが私
頭を下げること=救いなのだと思う。
僕は歴史上で一番救われなかった人物は秦の始皇帝だと思う。自分を神の如く思っていたから、不老不死の薬を求めたけれど、だまされて死んだ。頭が下がらなかったから死んだ。これは我執の立場である。ピラミッドを作った王たちも同じだろう。そして僕たちも。
逆に七高僧の曇鸞は、最初は長生きの法を求めたが、のちにインドの僧に観無量寿経を授けられて、仏に頭を下げて救われていった。
30代で参禅するのは珍しくて、頑固がとれなかったので、師匠にもう額づきまくって、おでこが擦り切れまくっている禅僧がいたらしい。本当に頭を下げることは、それほどまでに難しい。
死ぬのがなぜ怖いかと言ったら、頭をあげているからだ。自分のことが世界一大切で、これがなくなるのが怖い。だから王はピラミッドを作る。「本当に」頭を下げるとどうなるか。自分を過大評価しなくなる。謙虚になる。「たかが私」になる。
人間に、頭を下げる能力はない。端的に不可能である。だから、阿弥陀仏が僕たちに「どうか助かってくれ」と頭を下げている。それでも僕たちは知らんぷりをしている。阿弥陀仏が頭を下げている。五劫の思惟と永劫の修行をして、僕たちの救いを完成させたあとに、「どうか南無阿弥陀仏を受け取ってくれ」と頭を下げている。その莫大な慈悲に、「頭を下げるのはこっちのほうだった」と気づいたとき、心の中の頭が永久にポキっと折れるのだと思う。「つまらん私だった」と深心される。
「たかが私」で、首根っこからポキっと頭が折れる。これが機の深心だ。しかし「されど私」で、弥陀仏に愛されていることを知る。これが法の深心だ。
拝み拝まれる人生。僕は、普通に生きてて、心底から頭が下がることがあるとは思えない。たかが私で、自分のつまらんことを知る。されど、捨ててくださらん親がいる。よくできたしかけだなと思う。
僕は歴史上で一番救われなかった人物は秦の始皇帝だと思う。自分を神の如く思っていたから、不老不死の薬を求めたけれど、だまされて死んだ。頭が下がらなかったから死んだ。これは我執の立場である。ピラミッドを作った王たちも同じだろう。そして僕たちも。
逆に七高僧の曇鸞は、最初は長生きの法を求めたが、のちにインドの僧に観無量寿経を授けられて、仏に頭を下げて救われていった。
30代で参禅するのは珍しくて、頑固がとれなかったので、師匠にもう額づきまくって、おでこが擦り切れまくっている禅僧がいたらしい。本当に頭を下げることは、それほどまでに難しい。
死ぬのがなぜ怖いかと言ったら、頭をあげているからだ。自分のことが世界一大切で、これがなくなるのが怖い。だから王はピラミッドを作る。「本当に」頭を下げるとどうなるか。自分を過大評価しなくなる。謙虚になる。「たかが私」になる。
人間に、頭を下げる能力はない。端的に不可能である。だから、阿弥陀仏が僕たちに「どうか助かってくれ」と頭を下げている。それでも僕たちは知らんぷりをしている。阿弥陀仏が頭を下げている。五劫の思惟と永劫の修行をして、僕たちの救いを完成させたあとに、「どうか南無阿弥陀仏を受け取ってくれ」と頭を下げている。その莫大な慈悲に、「頭を下げるのはこっちのほうだった」と気づいたとき、心の中の頭が永久にポキっと折れるのだと思う。「つまらん私だった」と深心される。
「たかが私」で、首根っこからポキっと頭が折れる。これが機の深心だ。しかし「されど私」で、弥陀仏に愛されていることを知る。これが法の深心だ。
拝み拝まれる人生。僕は、普通に生きてて、心底から頭が下がることがあるとは思えない。たかが私で、自分のつまらんことを知る。されど、捨ててくださらん親がいる。よくできたしかけだなと思う。
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