信じる 疑い 救い
「信」という字は「まこと」という意味を表すというのは浄土真宗でかねがね聞いていたけれど、グーグルで信と検索したら本当にそういう意味があった。一般的にもそういう使われ方をするんだ、と一つ学んだ。
浄土真宗は信心、言い換えれば「まことの心」——それは絶対にこの虚仮不実な凡夫の心ではない———「仏心」を仏から賜る宗教である。この信心があれば、浄土へ往生できる。疑いがあれば、往生できない。僕は阿弥陀仏はなぜそんな不親切なことをしたのか、ずっと疑問に思っていた。南無阿弥陀仏と称えさえすれば、浄土へ行かせてくれればいいじゃないか、と思っていたけれど、それでは「救われない」のだ。
実際にそういう宗旨もある。一遍上人の開いた時宗だ。時宗の有名な言葉に「信不信を問わず」というのがある。これを「無安心の安心」ともいうらしい。けれど疑いのあるままで、本当に救われているのか?信不信を問わずに救うのが、本当の慈悲なんじゃないか?と思った時期もあったが、今はそうは思わない。
信仰とは、清沢満之によると、主観的な事実である。人に金を貸すとしよう。それが返ってきたとき、本当に安心する。返ってこないうちは、もしかしたら…という不安が拭えない。心に「仏心」が宿って疑いが晴れたときが、金が返ってきたときで、疑いが晴れてないときが金が返って来てない状態である。宗教の眼目が「安心」にあるとすれば、疑いとは安心を崩す、救いの邪魔者でしかない。
けれど、無限を有限な知性で計らうことはできない。けれども計らってしまうのが人間である。不可思議で無限なものの前では、人間は計らわざるをえない。それは2×2=100だと言われているようなものである。だから阿弥陀仏がお育てをして、疑いを一つ一つとってくれるんだろう。
稲城和上がいつも仰ってるが、救いは「今ここ」である。平生業成とはそういう意味だろう。
「疑いのないこと」=「救い」である。安心である。イコールである。即である。「救い」というのは「疑いのないこと」である。
信を強調している浄土真宗からたくさんの妙好人が生まれ、時宗では一切聞かないのは象徴的である。信のあるところに救いはある。妙好人も、それを証明している。
浄土真宗は信心、言い換えれば「まことの心」——それは絶対にこの虚仮不実な凡夫の心ではない———「仏心」を仏から賜る宗教である。この信心があれば、浄土へ往生できる。疑いがあれば、往生できない。僕は阿弥陀仏はなぜそんな不親切なことをしたのか、ずっと疑問に思っていた。南無阿弥陀仏と称えさえすれば、浄土へ行かせてくれればいいじゃないか、と思っていたけれど、それでは「救われない」のだ。
実際にそういう宗旨もある。一遍上人の開いた時宗だ。時宗の有名な言葉に「信不信を問わず」というのがある。これを「無安心の安心」ともいうらしい。けれど疑いのあるままで、本当に救われているのか?信不信を問わずに救うのが、本当の慈悲なんじゃないか?と思った時期もあったが、今はそうは思わない。
信仰とは、清沢満之によると、主観的な事実である。人に金を貸すとしよう。それが返ってきたとき、本当に安心する。返ってこないうちは、もしかしたら…という不安が拭えない。心に「仏心」が宿って疑いが晴れたときが、金が返ってきたときで、疑いが晴れてないときが金が返って来てない状態である。宗教の眼目が「安心」にあるとすれば、疑いとは安心を崩す、救いの邪魔者でしかない。
けれど、無限を有限な知性で計らうことはできない。けれども計らってしまうのが人間である。不可思議で無限なものの前では、人間は計らわざるをえない。それは2×2=100だと言われているようなものである。だから阿弥陀仏がお育てをして、疑いを一つ一つとってくれるんだろう。
稲城和上がいつも仰ってるが、救いは「今ここ」である。平生業成とはそういう意味だろう。
「疑いのないこと」=「救い」である。安心である。イコールである。即である。「救い」というのは「疑いのないこと」である。
信を強調している浄土真宗からたくさんの妙好人が生まれ、時宗では一切聞かないのは象徴的である。信のあるところに救いはある。妙好人も、それを証明している。
コメントを書く...
Comments