「存在と時間」を読んで
この「存在と時間」という書物は、20世紀最大の哲学書であるらしい。確かに、道具的連関が根源であり、デカルト的な世界観は抽象されたものだ、という議論や、主観客観の問題はそもそも存在しない、「世界内存在」が存在しているだけだ、という議論は、かなり熱い。鋭い。実存分析にしても、被投性と企投性、そしてそれが「責め」であるという概念を作ったのは、「頼んでもないのに生まれてきた世界で、自分の存在の根拠として生きていく責任がある」という現代の気分を言い表していて、凄い。
死の実存的分析は、「死に面することでひとごとでない可能性が開かれる」「追い越せない可能性を先駆けすることで、その可能性の前にある有象無象の可能性を捨てることができる」という分析がなされていた。それもまあ、そうだなと思うけど、ここは「メメントモリ」以上のものは感じられなかった。
ここから、サルトルやメルロポンティ、レヴィナス、ガダマー、数えきれない哲学者やその他の学者が影響を受けたのだろうけれど、僕は「こんなものか」としか思わなかった。強靭な思索力、語学、哲学史の天才、が本気を出しても、「世界はなぜ無ではなくて有であるのか」という答えに結局答えは出なかったし、個々の概念が面白くて使いやすいだけだった。
生老病死という決定的に誤魔化せない点に、何も答えられていない。「結局死ぬのになぜ生きるのか」という問いになんの答えも出せていない。その時点で、こんな本は「気晴らし」である。
これが20世紀最大の哲学書なら、哲学ってくだらないなと心底思う。面白いけど、面白いだけならアニメを見たほうがおもしろい。
本当に気晴らしだ。哲学で「据わり」を作ることはできない。「だから何だ?」という問いが永遠にリフレインする。
存在への問いを復活させた。だから何だ?デカルトへの決定的な批判をした。だから何だ?内存在を分析して生の構造を明らかにした。だから何だ?死や罪の実存的解釈をした。だから何だ?
だから何なんだ?結局人間は死ぬ。
死の実存的分析は、「死に面することでひとごとでない可能性が開かれる」「追い越せない可能性を先駆けすることで、その可能性の前にある有象無象の可能性を捨てることができる」という分析がなされていた。それもまあ、そうだなと思うけど、ここは「メメントモリ」以上のものは感じられなかった。
ここから、サルトルやメルロポンティ、レヴィナス、ガダマー、数えきれない哲学者やその他の学者が影響を受けたのだろうけれど、僕は「こんなものか」としか思わなかった。強靭な思索力、語学、哲学史の天才、が本気を出しても、「世界はなぜ無ではなくて有であるのか」という答えに結局答えは出なかったし、個々の概念が面白くて使いやすいだけだった。
生老病死という決定的に誤魔化せない点に、何も答えられていない。「結局死ぬのになぜ生きるのか」という問いになんの答えも出せていない。その時点で、こんな本は「気晴らし」である。
これが20世紀最大の哲学書なら、哲学ってくだらないなと心底思う。面白いけど、面白いだけならアニメを見たほうがおもしろい。
本当に気晴らしだ。哲学で「据わり」を作ることはできない。「だから何だ?」という問いが永遠にリフレインする。
存在への問いを復活させた。だから何だ?デカルトへの決定的な批判をした。だから何だ?内存在を分析して生の構造を明らかにした。だから何だ?死や罪の実存的解釈をした。だから何だ?
だから何なんだ?結局人間は死ぬ。
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