信仰の不可能性
人間は対自的存在である。対自とは、「自己への現前」という意味である。
A=神は存在する、という信念を持つとする。Aという状態を即自状態だとしよう。Aという信念は、対自において、A(についての)意識と、対になる。意識は反射するものであるから、ここはAという信念と、A(についての)意識が反射しあって、【反射-反射されるもの】という二つであると同時に一つであるという事態になる。
A(についての)意識は、Aの否定である。信念を知るということは、もはや信じていないということである。Aという即自状態にあった信念が、対自の現前によって「問題にされ」て、信念は破壊される。意識は絶えず脱自的である。信念は非信念に移り変わっていく。
サルトル用語を使わずに、通俗的に書く。
「神は存在する」という信念を持つ。それをAとする。そのAを、私は「対象化」することができる。「Aは正しい」「Aは間違っている」「Aは怪しい」対象化した時点で、信念は「思い」となる。思いの中で、信念はぷかぷかと浮かぶことになる。「信念そのもの」であったものは、意識に対象化されたせいで、「判断対象」という矮小なものとなる。「信念」は「信念についての意識」に滑っていき、信念ではなくなる。「意識」は信念ではない。
よって、信仰を持つことは不可能である。ただ、信心を得ることは可能である。信心とは聞即信であるから。
A=神は存在する、という信念を持つとする。Aという状態を即自状態だとしよう。Aという信念は、対自において、A(についての)意識と、対になる。意識は反射するものであるから、ここはAという信念と、A(についての)意識が反射しあって、【反射-反射されるもの】という二つであると同時に一つであるという事態になる。
A(についての)意識は、Aの否定である。信念を知るということは、もはや信じていないということである。Aという即自状態にあった信念が、対自の現前によって「問題にされ」て、信念は破壊される。意識は絶えず脱自的である。信念は非信念に移り変わっていく。
サルトル用語を使わずに、通俗的に書く。
「神は存在する」という信念を持つ。それをAとする。そのAを、私は「対象化」することができる。「Aは正しい」「Aは間違っている」「Aは怪しい」対象化した時点で、信念は「思い」となる。思いの中で、信念はぷかぷかと浮かぶことになる。「信念そのもの」であったものは、意識に対象化されたせいで、「判断対象」という矮小なものとなる。「信念」は「信念についての意識」に滑っていき、信念ではなくなる。「意識」は信念ではない。
よって、信仰を持つことは不可能である。ただ、信心を得ることは可能である。信心とは聞即信であるから。
コメントを書く...
Comments