原口統三と浅原才市 原罪とは何か 救いとは何か | 人生入門

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哲学書読書計画
今まで読んだもの
丸山圭三郎 プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー ウィトゲンシュタイン プロティノス 龍樹 孔子 老子 荘子 クリシュナムルティ マルクス・ガブリエル マックス・シュティルナー ウィリアム・ジェイムズ シオラン ベルクソン ライプニッツ 九鬼周造 カント シェリング 波多野精一 メルロ・ポンティ ニーチェ ヘーゲル マルクス サルトル レヴィナス

今年と来年中に読むもの
西田幾多郎 フィヒテ バタイユ アウグスティヌス トマス・アクィナス パウル・ティリッヒ カール・バルト ガザーリー 清沢満之 曽我量深 金子大栄 安田理深

再来年中に読むもの
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原口統三と浅原才市 原罪とは何か 救いとは何か

 仏教に五戒というものがある。殺生、偸盗、邪淫、飲酒、妄語。殺すこと、盗むこと、不倫、飲酒、嘘つき。ある時、弟子が、どの戒律が一番重いのでしょうか、と釈尊に聞くと、妄語(嘘つき)が一番罪が重い、と答えたらしい。普通は、殺生と答えるだろう。なぜ嘘つきの罪が一番重いのか。それは、嘘をつくような人間は、ほかにも悪いことがいくらでもできるからだ。「嘘つきは泥棒の始まり」と俗に言われるが、嘘つきは全ての悪の根源である、というのが釈尊の明察である。

 嘘とは何か、それは、自分の言った言葉に、責任を持たないことだと思う。そしてそれは、全ての人間にインストールされている、「自意識」から生まれる。
パラドックスは遍在する。いっさいの表現はこれを逆立ちして眺めることができる。
僕が「見る者」であった時には、よくこう語ったものだ。
「俺の眼にとっては、天が下にあり、地が上にある、と」
事実、そう信じたのだ。

伝えうるものの領域を究めた結果、僕はその境界を超えてしまった。
今日、僕は、自分の語ること、考えることが、皆目嘘八百にしか感ぜられぬのだ。

 人間の思考は、原理的に「自由」である。そしてその「自由」を悪用している人間は、浜辺に砂の城を作って、自分で壊す子供に似ている。自分の考えた思想、自分の発した言葉を、すべて「ご破算」にすることができる。なぜそんなことができるのか?
しかし批評することは、どこまで行っても自己を許すことである。つまり自己自身を批判する最も厳しい眼をもつことは、生きている間は不可能である。

 僕Aが僕Bを反省する。僕Aはその時反省されていないので、僕Cがそれを反省する。僕Cは反省されてないので僕Dは…。血で血を洗うことはできない。眼は眼を見ることができない。それゆえ、「自己自身を批判する最も厳しい眼」を持つことは不可能なのだ。その「甘さ」から、城をご破算にする「嘘つき」が現れる。故に、人間は「原理的」に全員嘘つきであり、「ここまで到達した後に僕は死を決意した。僕は「より誠実であろう」とするものであって結果を恐れるものではない。僕はどうしても自分を許せなかったのだ。」

わがこころ みえもせず
りん十にみえるこころが をにとなる
あさまし あさまし
あさましいのも をそのかわよの
かわかわ をそのかわ をそのかわ をそのかわ
をそのかわ をそのかわ
あさまし あさまし あさましのも をそのかわ
             (浅原 才市)

 妙好人の歌である。先ほどの青年の原罪構造と、全く同じ構造をしている。自分のことを「あさましい」と「反省」しても、それは「うそのかわ」だ。人間は誠実に生きられないのだ。人間は「救えない」ということは、「救う存在がいる」ということである。嘘の原罪構造は、全ての人間にインストールされている。故に、阿弥陀仏が存在している。うそのかわでないのは、南無阿弥陀仏だけだ。

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