原口統三と浅原才市 原罪とは何か 救いとは何か
仏教に五戒というものがある。殺生、偸盗、邪淫、飲酒、妄語。殺すこと、盗むこと、不倫、飲酒、嘘つき。ある時、弟子が、どの戒律が一番重いのでしょうか、と釈尊に聞くと、妄語(嘘つき)が一番罪が重い、と答えたらしい。普通は、殺生と答えるだろう。なぜ嘘つきの罪が一番重いのか。それは、嘘をつくような人間は、ほかにも悪いことがいくらでもできるからだ。「嘘つきは泥棒の始まり」と俗に言われるが、嘘つきは全ての悪の根源である、というのが釈尊の明察である。
嘘とは何か、それは、自分の言った言葉に、責任を持たないことだと思う。そしてそれは、全ての人間にインストールされている、「自意識」から生まれる。
人間の思考は、原理的に「自由」である。そしてその「自由」を悪用している人間は、浜辺に砂の城を作って、自分で壊す子供に似ている。自分の考えた思想、自分の発した言葉を、すべて「ご破算」にすることができる。なぜそんなことができるのか?
僕Aが僕Bを反省する。僕Aはその時反省されていないので、僕Cがそれを反省する。僕Cは反省されてないので僕Dは…。血で血を洗うことはできない。眼は眼を見ることができない。それゆえ、「自己自身を批判する最も厳しい眼」を持つことは不可能なのだ。その「甘さ」から、城をご破算にする「嘘つき」が現れる。故に、人間は「原理的」に全員嘘つきであり、「ここまで到達した後に僕は死を決意した。僕は「より誠実であろう」とするものであって結果を恐れるものではない。僕はどうしても自分を許せなかったのだ。」
妙好人の歌である。先ほどの青年の原罪構造と、全く同じ構造をしている。自分のことを「あさましい」と「反省」しても、それは「うそのかわ」だ。人間は誠実に生きられないのだ。人間は「救えない」ということは、「救う存在がいる」ということである。嘘の原罪構造は、全ての人間にインストールされている。故に、阿弥陀仏が存在している。うそのかわでないのは、南無阿弥陀仏だけだ。
嘘とは何か、それは、自分の言った言葉に、責任を持たないことだと思う。そしてそれは、全ての人間にインストールされている、「自意識」から生まれる。
パラドックスは遍在する。いっさいの表現はこれを逆立ちして眺めることができる。
僕が「見る者」であった時には、よくこう語ったものだ。
「俺の眼にとっては、天が下にあり、地が上にある、と」
事実、そう信じたのだ。
伝えうるものの領域を究めた結果、僕はその境界を超えてしまった。
今日、僕は、自分の語ること、考えることが、皆目嘘八百にしか感ぜられぬのだ。
人間の思考は、原理的に「自由」である。そしてその「自由」を悪用している人間は、浜辺に砂の城を作って、自分で壊す子供に似ている。自分の考えた思想、自分の発した言葉を、すべて「ご破算」にすることができる。なぜそんなことができるのか?
しかし批評することは、どこまで行っても自己を許すことである。つまり自己自身を批判する最も厳しい眼をもつことは、生きている間は不可能である。
僕Aが僕Bを反省する。僕Aはその時反省されていないので、僕Cがそれを反省する。僕Cは反省されてないので僕Dは…。血で血を洗うことはできない。眼は眼を見ることができない。それゆえ、「自己自身を批判する最も厳しい眼」を持つことは不可能なのだ。その「甘さ」から、城をご破算にする「嘘つき」が現れる。故に、人間は「原理的」に全員嘘つきであり、「ここまで到達した後に僕は死を決意した。僕は「より誠実であろう」とするものであって結果を恐れるものではない。僕はどうしても自分を許せなかったのだ。」
わがこころ みえもせず
りん十にみえるこころが をにとなる
あさまし あさまし
あさましいのも をそのかわよの
かわかわ をそのかわ をそのかわ をそのかわ
をそのかわ をそのかわ
あさまし あさまし あさましのも をそのかわ
(浅原 才市)
妙好人の歌である。先ほどの青年の原罪構造と、全く同じ構造をしている。自分のことを「あさましい」と「反省」しても、それは「うそのかわ」だ。人間は誠実に生きられないのだ。人間は「救えない」ということは、「救う存在がいる」ということである。嘘の原罪構造は、全ての人間にインストールされている。故に、阿弥陀仏が存在している。うそのかわでないのは、南無阿弥陀仏だけだ。
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