自意識 屈折 宗教 悟り 恥 自閉症スペクトラム障害
哲学者の永井均が、こういう発言をしていた。
たしかに頷けるところがある。僕は聖者と呼ばれている人や、悟ったと言われている人の言行録や自伝をよく読むけれど、みんな実直で、素直で、善良だ。悟る以前から、生まれつき(業に従ってといってもいいけれど)そうなのだ。煩悩が単純という言葉は言いえて妙だ。例えば南ナントカというお坊さんは、著作を読むと、自意識過剰が過ぎて、自分語りをよくするし、他者の批判ばかりしている。そのお坊さんは何年坐禅しても悟りを開けないらしく、「悟りは開けない」という本まで出している。
阿含経典にも、瞑想をする以前の心得として、次のような人間になることを求められている。
1:ものごとを上手にこなせるような人間になる
2:性格的に真っ直ぐの人間になる
3:正しいものごとについて真っ直ぐになる
4:人の話に耳を傾ける、他人のアドバイスを素直に受ける人間になる。いわゆる、頑固ではない素直な人になる。
5:柔軟な性格
6:謙虚であること…etc
「素直でまっすぐな人間になりなさい」ということだろう。
話が少し変わるけど、僕は、宗教心の始まりは、やはり「恥」だと思う。アダムとイブが、智慧の木の実を食べて、まず真っ先に感じたのが「恥」だ。他者の視線、自己の視線を強烈に内面化して、己を批判すること。これには確かに智慧の木の実、言い換えると「頭の良さ」が必要である。キルケゴールの云う「直接性、本能性、無媒介性」という状態が、エデンの園に安住して宗教心(求める心)のない状態で、「反省性」の状態が、エデンの園から追放されて、「神」を求める放浪者だというのが僕の昔からの意見である。先ほどの言葉で言うと、煩悩の単純さが直接性で、煩悩の複雑さが反省性だ。
自分を「反省」することで、「恥」が生まれる。僕は、この「恥」を、親鸞以上に純粋に反省しきった人を知らない。太宰治(堕罪治?)は「恥の多い生涯を送ってきました」と言い残して死んだが、親鸞は「無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども」と言って、「恥じることもできない」という自分を恥じている。太宰治の反省は一重の屈折だけれども、親鸞の反省は二重になっている。反省もできない自分を反省するという非常に「複雑」な煩悩になっている。
永井均風に言うと、このような「恵まれた煩悩」を持っていたからこそ、親鸞は比叡山で20年修行しても悟れなかったのだと邪推したくなる。要は「ひねくれ者」すぎたのだ。
「直接性」の状態を生きている人間は、煩悩が単純なので、悟りを開くことができるのだろう。それに比べて、煩悩が複雑な、キルケゴールや親鸞のような人間は、きっと悟ることはできないんだろう。それでも僕は、後者のような人間像に共感を覚えるし、自分もそちら寄りの人間だと思う。キルケゴールは、いつも同じ古いズボンを着ていて、街の人みんなから笑われていたらしいが、なんだか自閉症スペクトラム障害のエピソードのようにも聞こえる。自閉症スペクトラムの人はみな屈折するんじゃないか。
直接性というのは、別の言葉で言うと、JSミルのいう「満足している豚」のことだろう。そして反省性というのは「満足していないソクラテス」のことだろう。汝自身を知れ。知る自分と知られる自分が分裂している。きっとそれらは「霊性」の接着剤でくっつける必要がある。「他者が措定したところのもの」になる必要がある。さもないと、無限に分裂する自己との疎隔が待っているだけだ…。
大竹晋『「悟り体験」を読む ‐大乗仏教で覚醒した人々』 を拾い読みしていて、悟りに至った人々は実は元々の煩悩が単純な人々なのではないか、という疑念が浮かんだ。真に優秀な(巧妙で強靭な)煩悩に恵まれると、最終局面での闘争は熾烈を極め、舞台たる人格自体が崩壊せざるをえないのでは、と。
たしかに頷けるところがある。僕は聖者と呼ばれている人や、悟ったと言われている人の言行録や自伝をよく読むけれど、みんな実直で、素直で、善良だ。悟る以前から、生まれつき(業に従ってといってもいいけれど)そうなのだ。煩悩が単純という言葉は言いえて妙だ。例えば南ナントカというお坊さんは、著作を読むと、自意識過剰が過ぎて、自分語りをよくするし、他者の批判ばかりしている。そのお坊さんは何年坐禅しても悟りを開けないらしく、「悟りは開けない」という本まで出している。
阿含経典にも、瞑想をする以前の心得として、次のような人間になることを求められている。
1:ものごとを上手にこなせるような人間になる
2:性格的に真っ直ぐの人間になる
3:正しいものごとについて真っ直ぐになる
4:人の話に耳を傾ける、他人のアドバイスを素直に受ける人間になる。いわゆる、頑固ではない素直な人になる。
5:柔軟な性格
6:謙虚であること…etc
「素直でまっすぐな人間になりなさい」ということだろう。
話が少し変わるけど、僕は、宗教心の始まりは、やはり「恥」だと思う。アダムとイブが、智慧の木の実を食べて、まず真っ先に感じたのが「恥」だ。他者の視線、自己の視線を強烈に内面化して、己を批判すること。これには確かに智慧の木の実、言い換えると「頭の良さ」が必要である。キルケゴールの云う「直接性、本能性、無媒介性」という状態が、エデンの園に安住して宗教心(求める心)のない状態で、「反省性」の状態が、エデンの園から追放されて、「神」を求める放浪者だというのが僕の昔からの意見である。先ほどの言葉で言うと、煩悩の単純さが直接性で、煩悩の複雑さが反省性だ。
自分を「反省」することで、「恥」が生まれる。僕は、この「恥」を、親鸞以上に純粋に反省しきった人を知らない。太宰治(堕罪治?)は「恥の多い生涯を送ってきました」と言い残して死んだが、親鸞は「無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども」と言って、「恥じることもできない」という自分を恥じている。太宰治の反省は一重の屈折だけれども、親鸞の反省は二重になっている。反省もできない自分を反省するという非常に「複雑」な煩悩になっている。
永井均風に言うと、このような「恵まれた煩悩」を持っていたからこそ、親鸞は比叡山で20年修行しても悟れなかったのだと邪推したくなる。要は「ひねくれ者」すぎたのだ。
「直接性」の状態を生きている人間は、煩悩が単純なので、悟りを開くことができるのだろう。それに比べて、煩悩が複雑な、キルケゴールや親鸞のような人間は、きっと悟ることはできないんだろう。それでも僕は、後者のような人間像に共感を覚えるし、自分もそちら寄りの人間だと思う。キルケゴールは、いつも同じ古いズボンを着ていて、街の人みんなから笑われていたらしいが、なんだか自閉症スペクトラム障害のエピソードのようにも聞こえる。自閉症スペクトラムの人はみな屈折するんじゃないか。
直接性というのは、別の言葉で言うと、JSミルのいう「満足している豚」のことだろう。そして反省性というのは「満足していないソクラテス」のことだろう。汝自身を知れ。知る自分と知られる自分が分裂している。きっとそれらは「霊性」の接着剤でくっつける必要がある。「他者が措定したところのもの」になる必要がある。さもないと、無限に分裂する自己との疎隔が待っているだけだ…。
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