信仰とは
僕は「信じる」という言葉を、宗教であまり使わないほうがいいと思う。神、もしくは仏がいるのは端的な「事実」であるのだから、ことさら「信じる」必要はないだろう。イエスの復活は、自分が今存在していること、目の前のリンゴが赤いこと、自分の親が自分の親であること、このような事実と同じように、「端的な事実」である(僕はそうは思わないけれど)。
法蔵菩薩が5劫の思惟をしたことも、永遠の修行をしたことも、事実である。阿弥陀仏が、僕たちを現在、慈悲と智慧の光で照らしているのも事実である。だから、「知る」「気づく」「聞く」「会う」といった表現のほうが適切であるように思う。「信じる」と聞いたら、なにか、嘘かほんとか分からないようなものを無理やりに思い込むように思う人も多いと思う。
西田幾多郎は、「宗教は心霊的な事実である」と言った。僕もそうであると思う。僕は、霊性というものは、誰にでも備わっているものだと感じる。人間はみな詩人であると言った詩人がいるけれど、僕は人間はみな宗教的であると言いたい。科学的には観察できない、「霊性」というものが人間には備わっている。人間がみな、異性を求めるように、人間はみな神や仏を求めるようにできている。あとはその「他力」に気づけばいいだけだ。信じる必要はない。事実を聞くだけでいい。無限の命の中で、仏の手の上で生きていることに気づくだけでいい。
「何があってもお前を見捨てないぞ」という声を聞いて、「ありがとうございます」となるのが、信仰である。
法蔵菩薩が5劫の思惟をしたことも、永遠の修行をしたことも、事実である。阿弥陀仏が、僕たちを現在、慈悲と智慧の光で照らしているのも事実である。だから、「知る」「気づく」「聞く」「会う」といった表現のほうが適切であるように思う。「信じる」と聞いたら、なにか、嘘かほんとか分からないようなものを無理やりに思い込むように思う人も多いと思う。
西田幾多郎は、「宗教は心霊的な事実である」と言った。僕もそうであると思う。僕は、霊性というものは、誰にでも備わっているものだと感じる。人間はみな詩人であると言った詩人がいるけれど、僕は人間はみな宗教的であると言いたい。科学的には観察できない、「霊性」というものが人間には備わっている。人間がみな、異性を求めるように、人間はみな神や仏を求めるようにできている。あとはその「他力」に気づけばいいだけだ。信じる必要はない。事実を聞くだけでいい。無限の命の中で、仏の手の上で生きていることに気づくだけでいい。
「何があってもお前を見捨てないぞ」という声を聞いて、「ありがとうございます」となるのが、信仰である。
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