ブログに気持ちを書くことがあまりない
僕はなんて罪深い人間なんだろう、僕は芯から絶望している、とかなんとか昔は言っていたけれど、それはただのポーズで、僕は僕のことをなんとも思っていない。僕は本当に自分のことが好きで、このブログを見て頂ければ分かるが、僕は他人のことをブログにほぼ書かない、他人に興味がない、眼が内側を向いている。
死ぬのが怖いとか、結局死ぬから人生は無駄とか、そういう青臭いニヒリズム、メランコリーは、年と反比例に、薄く小さく、溶けていった。良寛さんが、「死ぬときは死ぬがよく候」と言っていて、僕はその境地に何がなんでもたどり着きたいと思っていたけれど、信仰が功を奏したのか、ただ年を食っただけなのかは分からないが、今は、別にもう「死ぬがよく候」だと思っていて、僕は昔から毎日自分が死ぬところをイメージする癖があるのだが、最近は、真っ白い東京を歩いていている自分が、傘が倒れるように優しく白い地面へ倒れこみ、そのまま如来の手の中で息絶えるというイメージが頻繁に脳裏に浮かぶ。有名になりたい、勝ち組になりたいという下卑た欲望もなく、人のためになりたいという崇高な欲望もなく、親孝行をしたいという当たり前の欲望もなく、僕はただ、「如来の手の中」というメタファーで表現できるような、死=救いを待っている、いや、待っているというのも正確でなく、なんとなくそれを夢見ながら、毎日ぼんやり過ごしている。
かといって、倦怠もない、本という友達が、僕の倦怠を隠してくれる、抱擁してくれる。最近はもっぱら、カントやプロティノス、英米倫理学などの哲学書を読んでいるが、これを読んで、どうなるのか、なんのためになるのか、さっぱり分からない。何かを知った瞬間、理解した瞬間に訪れる、さらりとした楽しさ、嬉しさが、心の中を滑っていって、満足とまではいかないけれど、倦怠はどこかへ葬り去られる。
絶望もない、欲望もない、倦怠もない、幸福もない、ほんのちょっぴりの日常の楽しさと、安らかな死への憧れが、今の僕の全てである。この日常が1000年続いてもいいし、明日死んでもいい。
いや、やっぱり明日死ぬのはちょっと嫌かもしれない。
死ぬのが怖いとか、結局死ぬから人生は無駄とか、そういう青臭いニヒリズム、メランコリーは、年と反比例に、薄く小さく、溶けていった。良寛さんが、「死ぬときは死ぬがよく候」と言っていて、僕はその境地に何がなんでもたどり着きたいと思っていたけれど、信仰が功を奏したのか、ただ年を食っただけなのかは分からないが、今は、別にもう「死ぬがよく候」だと思っていて、僕は昔から毎日自分が死ぬところをイメージする癖があるのだが、最近は、真っ白い東京を歩いていている自分が、傘が倒れるように優しく白い地面へ倒れこみ、そのまま如来の手の中で息絶えるというイメージが頻繁に脳裏に浮かぶ。有名になりたい、勝ち組になりたいという下卑た欲望もなく、人のためになりたいという崇高な欲望もなく、親孝行をしたいという当たり前の欲望もなく、僕はただ、「如来の手の中」というメタファーで表現できるような、死=救いを待っている、いや、待っているというのも正確でなく、なんとなくそれを夢見ながら、毎日ぼんやり過ごしている。
かといって、倦怠もない、本という友達が、僕の倦怠を隠してくれる、抱擁してくれる。最近はもっぱら、カントやプロティノス、英米倫理学などの哲学書を読んでいるが、これを読んで、どうなるのか、なんのためになるのか、さっぱり分からない。何かを知った瞬間、理解した瞬間に訪れる、さらりとした楽しさ、嬉しさが、心の中を滑っていって、満足とまではいかないけれど、倦怠はどこかへ葬り去られる。
絶望もない、欲望もない、倦怠もない、幸福もない、ほんのちょっぴりの日常の楽しさと、安らかな死への憧れが、今の僕の全てである。この日常が1000年続いてもいいし、明日死んでもいい。
いや、やっぱり明日死ぬのはちょっと嫌かもしれない。
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