宇宙 永遠 慄き | 人生入門

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再来年中に読むもの
イタリア現代思想 アドルノ ヤスパース

宇宙 永遠 慄き

 統合失調症の人の中には、「時間」の無限ではなく、「空間」の無限に恐怖を覚える人がいるらしい。無限大に広がっている宇宙の中に、ぽつんと立っている、地球のカビのような自分を、知的に理解して怖がるのではなく、体験的に恐ろしいものだと感じるのだそう。僕の死への異常な執着は、病名をつけるとすれば「タナトフォビア」だと思うけれど、普通のタナトフォビアの人は「時間の永遠性」に恐怖を感じる。自分が死んだ後の無が、1億×1億年たっても続いていく。
 空間にしても、時間にしても、永遠の中のちっぽけな有限な自分というものから、近代的なニヒリズムは始まる。パスカルはこう言う「無限に対しては無、無に対してはすべて、無とすべてのあいだの中間者で、両極をとらえるには無限に遠く隔てられている。」無限小に対しては全て、無限大に対しては無、この寄る辺なさ。「根っこ」のなさ。科学が描き出した世界観は、人間を、無限の宇宙の中の小さい小さいアリ以下のものにしてしまった。宇宙からすれば、僕が生きようが、結婚しようが、死のうがどうでもいい。何もかも虚しい。神なき人間の惨めさ。人はどこから来て、どこへ行くのか。
 中世であれば、天動説の上に神の摂理があり、地球は宇宙の中心だった。中心を生きているという安心感があった。

 最近マルクスガブリエルという人の本を読んでる。そこに「意味の場」という概念が出てくる。例えば、僕の左手は僕の身体という意味の場に現象している。僕のパンセは僕の部屋という意味の場に現象している。1とか5とかいうのは自然数という意味の場に現象している。モナ・リザは、美術館という意味の場に現象している。そして、宇宙というのは物理学や天文学という意味の場に現象している。
 マルクスガブリエルが言うには、「世界」は「宇宙」よりも広い。宇宙がどれだけ広大なものであっても、それは物理学や天文学という意味の場に現れるものであって、「宇宙」の中に全ての世界が存在しているわけではない。もちろん「宇宙」の中に全てが存在しているという唯物論的な見方もできるが、それはそのような「意味の場」の中の言明でしかない。

 科学的宇宙の中に全てがあるのではなくて、世界の中に科学的宇宙があるという議論は、アクロバティックで面白いだけでなく、パスカル的な慄きを緩和できる可能性があるように思う。
 これを読んでいて、ドストエフスキーのこのシーンを思い出した
われわれは現に、いつも永遠なるものを不可解な観念として、何か大きな大きなもののように想像しています!  が、しかし、なぜ、必ず大きなものでなくちゃならないんでしょう? ところが、あにはからんや、すべてそういったようなものの代りに、田舎の湯殿みたいな媒けた小っぽけな部屋があって、その隅々に蜘蛛が巣を張っている、そして、これが即ち永遠だと、こう想像してごらんなさい。実はね、わたしはどうかすると、そんなふうのものが目先にちらつくことがあるんですよ。

 「宇宙的な永遠」の地位を下げること。世界の中に科学的宇宙があるならば、それは福音だ。

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