ジョージ・バークリー
僕はバークリーが好きだ。ジョンロック、ジョージバークリー、デイヴィッドヒュームの経験論三銃士と言われている中で一番影が薄いけれど、僕はバークリーが一番好きだ。ロックのように優れた政治哲学書も優れた科学論もないし、ヒュームのように現代まで通ずるような懐疑主義もないけれど、「すべては観念、だって知覚できないものは存在しないのと同じでしょ?」と言ってのけるそれを言っちゃおしめえよ感のあるバークリーと、後半の信心深い繊細なクリスチャンとしてのバークリーがミスマッチで、読んでて面白い、感動的ですらある。
バークリーの論旨は至って明解で、「知覚と存在は切り離せない」「精神と観念の外部には何もない」の2つに尽きる。
@知覚と存在は切り離せない。誰にも見られていないのに、存在しているもの(例えばあなたの家のトイレとか)を想像することができるだろうか?僕たちが想像している時点で、その事物は知覚されている。知覚と存在を頭の中で切り離すことができるだろうか?僕たちの「知覚」なしの存在は、考えられるだろうか?そんなものはない。思考実験してみてほしい。
A精神と観念の外部には何もない。花が見えるとしよう。その花は「自分にとって見えている花(観念)」である。その「自分にとって見えている花(観念)」の「外側」に、その観念の原因である「花に類似した物質」のようなものは考えられるだろうか?バークリーは否と言う。その花の観念の基盤になっているような物質を「考えよう」としても、それは「考えられたもの」なので、観念である。もしそれが知覚できないような存在ならば、知覚と存在は切り離せないのでそんなものは存在しない。観念の原因は、物質ではなくて精神である。
「知覚しているものしか存在していると言えない」というテーゼは論駁するのが難しい。唯物論者が石を蹴って、「これでバークリーを論駁した!」と言ったという逸話があるが、その石もその唯物論者の観念でしかない。
僕がバークリーの一番好きなところは、神の存在証明の部分である。バークリーによると、世界には精神と観念しか存在しない。人間は想像によって観念を作ることができるが、この世界にあるおびただしい観念、例えば車や星や猫などは、誰の精神の観念なのだろう。バークリーは一言でいう。「神の精神の観念である」と。世界は神の精神の観念である。
バークリーの論旨は至って明解で、「知覚と存在は切り離せない」「精神と観念の外部には何もない」の2つに尽きる。
@知覚と存在は切り離せない。誰にも見られていないのに、存在しているもの(例えばあなたの家のトイレとか)を想像することができるだろうか?僕たちが想像している時点で、その事物は知覚されている。知覚と存在を頭の中で切り離すことができるだろうか?僕たちの「知覚」なしの存在は、考えられるだろうか?そんなものはない。思考実験してみてほしい。
A精神と観念の外部には何もない。花が見えるとしよう。その花は「自分にとって見えている花(観念)」である。その「自分にとって見えている花(観念)」の「外側」に、その観念の原因である「花に類似した物質」のようなものは考えられるだろうか?バークリーは否と言う。その花の観念の基盤になっているような物質を「考えよう」としても、それは「考えられたもの」なので、観念である。もしそれが知覚できないような存在ならば、知覚と存在は切り離せないのでそんなものは存在しない。観念の原因は、物質ではなくて精神である。
「知覚しているものしか存在していると言えない」というテーゼは論駁するのが難しい。唯物論者が石を蹴って、「これでバークリーを論駁した!」と言ったという逸話があるが、その石もその唯物論者の観念でしかない。
僕がバークリーの一番好きなところは、神の存在証明の部分である。バークリーによると、世界には精神と観念しか存在しない。人間は想像によって観念を作ることができるが、この世界にあるおびただしい観念、例えば車や星や猫などは、誰の精神の観念なのだろう。バークリーは一言でいう。「神の精神の観念である」と。世界は神の精神の観念である。
コメントを書く...
Comments