僕は今まで恋愛について否定的なことばっかり言ってきたけれど、永遠性という立場から見ると、恋愛も案外捨てたもんじゃないかもしれない。
人間の中には「永遠」がある。これはソクラテスやキルケゴールが信じて疑わなかったことだが、どうやってその永遠性を喚起させるかが問題だ。ソクラテスの場合は「魂の吟味」がその方法で、キルケゴールの場合は「信仰」がその方法だろう。
ところで、「南無阿弥陀仏」というのは「お前を助けるぞ」という「絶対・永遠」からの呼び声であり、それが自分に領受されると、自らも絶対化される。真宗でよく言われる例えだが、金を、金の獅子にしても、価値は少しも変わらない。永遠=金の世界から相対=金の獅子に来った南無阿弥陀仏は人間に永遠性を垣間見させる。
「恋愛」自体は永遠ではないかもしれないが、というか愛別離苦がある以上、永遠ではありえないが、人間の中の永遠性を喚起させる働きはすると思う。カップルの吐く「ずっと一緒にいようね」「何があっても一緒にいようね」という言葉は「今」に永遠が注入される瞬間だ。離れる前提で付き合うカップルはいない。「付き合う」という行為は、その関係は無常だとしても、少なくともその期間に「永遠性」が働き続ける行為なのだと思う。「今」の永遠化。結晶化作用。
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