踊る阿呆に見る阿呆
果たしてぼくにとって、詩を書くとは、ものを書くとは一体なんだろう?それは一言でいえば「人生をふいにする」ことだ。人として生きる価値を限りなくゼロへと近づけてゆく行為。それこそがぼくにできる唯一の仕事であり、興味のもてる全てでもある。———岩倉文也
とある詩人の同人誌のあとがきなのだけれど、一度読んで僕は「嘘だ」と思った。なぜならピュアじゃないから。他人に自分の生を認められたいという欲求があるから。純粋じゃないから。商売をしているから。
これを読んで、僕は沢木興道のこの言葉を思い出した。
「なんにもならんこと」を自信を持ってしておるところが、おもしろくはないか。
坐禅は本当に何にもならない。金にもならないし尊敬もされない。まず人前で坐禅をしない。僕は、ものごとは究極まで瞑想しなければならないと思っている。そして、鎌倉時代というニヒリズムの時代に、究極まで瞑想した思想家が、道元と親鸞だと思っている。
凡夫は五欲六塵にウロタエテおる。そして好きだとか嫌いだとか、得したとか損したとか、エライとかエラクナイとか、金があるとかないとか、勝ったとか負けたとか。ところがそんなこと結局ナンニモナラヌということがわかって、そうして最後に「ナンニモナラヌ坐禅をタダスル」ということにゆきつかざるをえないのである。
行きついたところまで行きついた人生。人生について本気出して考えてみたら、僕は、自殺、坐禅、念仏、の3つにしか行き着かないと思う。哲学や、芸術なんかは中途半端だ。「何にもならない」と知っていて、「何か」をするのは、嘘つきだ。どこかに必ず嘘が混じる。「何にもならない」人生なのだから、「なんにもならない坐禅」をするというところまでゆきつかなければ、本物ではない。中途半端な虚無思想で気取っているアーティストさんは嫌いだ。踊る阿呆に見る阿呆という言葉があるが、表現する人間は完全に踊る阿呆だろう。舞台の上で踊っているのだから、虚無思想を語ってほしくない。本当に心底「無」を信仰しているなら、舞台から降りるべきだ。
「なんにもならぬ」人生で、一点の嘘もないもの、それは自殺か坐禅か念仏しかない。一点の曇りもないもの。完全なもの。即ち、無か永遠。僕は無を志向する人生でも、それはそれで誠実だし、僕にはできない道だから、物凄く尊敬する。「自分は誠実ではない」といって自殺をした詩人の原口統三が本当にいとおしくてたまらない。彼は本物だろう。
僕がもしも人生をふいにするのなら、自殺か坐禅をする。そして、僕は自殺も坐禅もしたくない。
ニヒリズムの時代だからこそ、永遠を志向したい。僕にはそれしか誠実に生きる方法が見当たらない。
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