独我論
バークリーは、知覚されるもののみが存在すると主張し、物質の存在を否定した。同時代の英国の文人であり、英語辞典の編纂で知られるジョンソンは、足もとの石を蹴りとばすことによって、物質の存在を証明し、バークリーの観念論を論駁しようとしたと伝えられる。
自分に知覚されるものだけが存在して、それ以外のものは存在しないということは哲学的に反駁することは難しい。今僕の「後ろ」にあるものは「存在」していない。
自分は観念論的傾向があると思う。「われわれはだれでも世界と一緒に生まれ、世界と一緒に死ぬ。めいめい持っている世界はちがうのじゃから。」という言葉に共感を覚える。唯物論的傾向のある人は、自分が死んだあとも世界は続くと考えていて、観念論的傾向がある人は、自分が死ねば世界は終わると考えるのだと思う。僕は自分が死ねば全ての観念が消えるので、世界は終わると感じるタチだ。
西田幾多郎は禅の立場からこの独我論を解決したと主張したが、浄土真宗の立場から、独我論を突破できるだろうか。浄土真宗では心のことを「機」という。そして阿弥陀仏のことを「法」という。そして、自分の「機」のことは置いておいて、「法」をタノメ、という。ここでは「機」の「外」に「法」があることが前提とされている。自分の心が明るいか暗いかは関係なく、法をタノム。自分の思いがどうであろうと、天気は変わらないように、自分の思いがどうであろうと、阿弥陀仏は変わらない。
この「他力」は「思い」の外にあるのだろうか?現代哲学でもこの「主観」を突破するものを発見することができていないのに、そんな簡単に「思い」の「外」を措定していいのかと思う。阿弥陀仏は自分の「思い」じゃないのか?という疑問が常につきまとう(哲学的には)。
けれどもそれが宗教と哲学の違いなんだと思う。信仰はいとも簡単に主観を突破してしまう。カントのいう「要請」に近い。
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