嘘
精神的な潔癖症。全部が嘘に思える。
政治家の「国民の皆様のために」というのはもちろん嘘で、実際は「票を貰って当選して偉くなりたい お金が欲しい」という意味である。昔の僕が面白いことを書いていた
僕はかっこつけている人、『()つけている人』になりたくない。男が女に飯を奢るのは「嘘」である。ごはん奢るよ(セックスしたいから)というかっこつけがある。()がついている。
多分、()がついてない言葉なんかないんだろう。みんなかっこつけてるんだろう。親が子供に言う「愛してるよ」でさえ、なにかしらの()がついてるように思う。
下心。僕の一番嫌いなもの。
南無阿弥陀仏は日本語訳すると「お前を必ず救う」という意味で、なんの下心もない。なんの()もついてない。
(同意してほしい)(理解されたい)(共感されたい)(ブログ褒められたい)
政治家の「国民の皆様のために」というのはもちろん嘘で、実際は「票を貰って当選して偉くなりたい お金が欲しい」という意味である。昔の僕が面白いことを書いていた
かっこつける、という言葉で語呂遊びをして、()をつける、と言い換えたらどうだろう。全ての表現には()がついている。哲学にも、芸術にも、自分の名前を冠して表現しているものは、全てカッコがついていると思う。つまり、(どうだ、俺を評価してくれ)(お前より俺のほうが凄いんだぞ)(俺は偉い)(俺に同意してくれ!!!)というようなカッコが文章や、絵画の隙間に垣間見える。ぼくは、これは、純粋ではない、素朴ではない、誠実ではない、と思う。
仏陀は、悟った直後、沈黙を保とうとした。バカな人間に説いてもしょうがないし、せっかく悟った思想を、独り占めしたかったから。経典にはそれだけの理由しか書かれていないけど、僕はそれ以上に、「弟子に説く」「物を書く(仏陀は書いてないけど)」ということの不純性を、仏陀は感じとったのだと思う。そこで、梵天という神様が、仏陀に教えを説けと勧めるエピソードが付け加えられた。これは、「欲望」や「エゴ」に潔癖な、仏教に必然的なエピソードだと僕は思う。
表現するとはどういうことなのか?僕は芸術家が嫌いだ。()をつけているから。(俺は特別な人間なんだ)(俺は才能がある)(俺を崇めろ)純粋ではないのだ。表現というものが、そもそも純粋ではない。ツイッターも嫌いだ。
弟子に教えを説くのは純粋ではない、物を書くのは純粋ではない。ところで僕は、ブログを書いている。
僕はかっこつけている人、『()つけている人』になりたくない。男が女に飯を奢るのは「嘘」である。ごはん奢るよ(セックスしたいから)というかっこつけがある。()がついている。
多分、()がついてない言葉なんかないんだろう。みんなかっこつけてるんだろう。親が子供に言う「愛してるよ」でさえ、なにかしらの()がついてるように思う。
下心。僕の一番嫌いなもの。
南無阿弥陀仏は日本語訳すると「お前を必ず救う」という意味で、なんの下心もない。なんの()もついてない。
(同意してほしい)(理解されたい)(共感されたい)(ブログ褒められたい)
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