邪見驕慢無仏法無信
母親が死んだあたりから、南無阿弥陀仏に生きようと思って、自分なりに浄土真宗の勉強をしているが、信じれたと思えば疑い、疑ってると思えば信じて、信じたと思えば邪見が伴い、邪見が晴れたと思ったら疑い、自分は心の底から邪見驕慢無仏法だと思い知らされる。全力で仏の教えを否定したがっている自分がいる。もう全力疾走だ。全力疾走で仏から逃げている。何回信仰を投げ出そうと思ったか分からない。投げ出しても、30分後にはまた念仏をしている。でもまた逃げてしまう。どうしようもない。掴んだと思ったら、消える。砂を掴んでいるようだ。砂の中でもがいているのが今の自分の姿で、まあ、その砂の海も仏の掌の上にあるんだろうなとは薄々思う。
疑い、驕慢、邪見、無信のようなものをこそ救う阿弥陀仏らしい。多分、僕が信じなくてもいいのだと思う。僕が信じることは不可能だ。「疑い」の道はだれしも通るらしいが、家はほぼ無宗教で、科学的教育を受けて、懐疑的な哲学精神に馴れた自分は一生信仰ができないんじゃないかと不安になる。
消えないものを掴みたい。掴むという表現はよくない。僕が掴むのではなくて、阿弥陀仏に掴まれるのが救いらしい。
焦るばかりだ。なんて無慈悲な阿弥陀仏なんだろうと、愚痴の一つも言ってみたくなる。
疑い、驕慢、邪見、無信のようなものをこそ救う阿弥陀仏らしい。多分、僕が信じなくてもいいのだと思う。僕が信じることは不可能だ。「疑い」の道はだれしも通るらしいが、家はほぼ無宗教で、科学的教育を受けて、懐疑的な哲学精神に馴れた自分は一生信仰ができないんじゃないかと不安になる。
消えないものを掴みたい。掴むという表現はよくない。僕が掴むのではなくて、阿弥陀仏に掴まれるのが救いらしい。
焦るばかりだ。なんて無慈悲な阿弥陀仏なんだろうと、愚痴の一つも言ってみたくなる。
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