古代懐疑主義より | 人生入門

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古代懐疑主義より

 ポケモン実況を見ていると「マスキッパ」というポケモンが出てきて、なんか聞いたことあるなあ…、と思っていたら「アグリッパ」という哲学者がいたな、と思いググったら出てきた。古代懐疑主義入門という岩波文庫の本でだいぶ昔に見た。
どんなものでも正しいといえるためには根拠が必要である。あるものAが正しいといえるにはその根拠Bが必要である。また根拠Bが正しいといえるにはその根拠Cが必要である。また根拠Cが正しいといえるにはその根拠Dが必要である…と根拠を要求すれば無限に続くことになる(無限背進)のではないか
どこかで「原理」や「証明はなくても正しいとみなす」といったそれ以上根拠を問えないような理由(ナマの事実)を立てて1の連鎖を止める場合、その理由自体は正否が保障されないので確実ではない
もしA→B→C→D→…の連鎖がどこかでAに戻ってくるならば循環論法になり無効になる
なお、この問題は古代ギリシャの昔から数学者や哲学者の間でよく知られたものであり、最初に明確に指摘したのは古代ギリシャのアグリッパである。

戸田山和久という哲学者の知識の哲学という本で、この懐疑論の批判が行われていて、僕はこれは正しいと思ったんだけれど、どうやら哲学的にはいろいろ問題があるみたい。ウィトゲンシュタインとかは、「体系」が「真理」を創り出すとか言ってた気がする。それもそれで一理ある。

 日蓮系の宗教は盲信的で攻撃的な人が多くて見ていて面白いんだけれど、「日蓮宗はなぜ正しいのか?」とヤフー知恵袋で質問されていて、「それは法華経にそう書かれているからだ」と答えていた。自分の「信念」の無限背信を、「法華経」に置いたわけである。
 昨日、「わが師村田和上」という本を読んだのだけれど、著者が村田和上に「浄土は本当に実在するのですか」と聞くと「お経にそう書かれておりますッ!」と言われて衝撃を受けたらしい。無限背信を止めるために「お経」を置いている。
 聖書はなぜ正しいのか?それは聖書にそう書かれているから。「正しいから正しい」というのをどこかに措定しないと、人間の「信念」は無限背信に陥る。

 科学主義者は、「理性」や「実験」を正しいと思っているが、「理性はなぜ正しいのか?」と問われると、究極的には基礎付けできないだろう。カントは理性がどこまでのことを言えるのか哲学したけれど、理性がなぜ正しいのかについては何も言ってなかった気がする。「理性は正しいから正しい」「1+1は正しいから正しい」としか言えない。

 「正しいから正しい」を宗教としよう。そうするとみんな宗教を持っていることになる。どこに「正しいから正しい」の軸足を置いて生きるか、それが根源的な問題な気がする。

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2019.08.24 22:03
読者
なぜ私のコメントを消したのですか?
こんなに文章を書けるなら、言葉にして反論なり持論を述べて頂きたい!

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