はい
物凄くつまらなくて当たり前のことを書きます。最近それに気づいたからです。
世の中に、「反出生主義者」という人達がいます。この人たちは、基本的に親を呪っています。なんで俺を産んだんだ!と怒っています。生誕の災厄、という本がありますが、そういう主張をしている方々です。「出生」を呪うのだから、当り前のように、自分の人生も呪います。呪詛だらけです。彼らのTwitterを見ると、親や社会、運命への憎悪で満ち溢れています。僕は、彼らを、この世で一番不幸な人種であると思います。「ぶつぶつ(仏仏)言わなくなるのが仏だ」と何かの本に書いてありましたが、彼らはその真逆です。その割に、仏教の生老病死という厭世観だけをとりだして、自分の主義を強化しようとします。仏教は生老病死を乗り越える教えなのに…。
自分が幸福かどうかを決めるのは、心です。僕が一番貧しいと思う心の持ち主は、自分という存在の出生を呪っている「反出生主義者」です。ではこの反対を考えれば、幸福とは何かが分かるのではないでしょうか?
自分の出生を喜ぶこと。親に感謝すること。生きててよかったと思うこと。僕は、親が病気になり、常々この「感謝」ということを思うようになりました。当り前のことは、当り前じゃない、ということが分かってきました。健康なのは当り前じゃない、親がいるのは当たり前じゃない、毎日ご飯が食べられるのは当たり前じゃない。綺麗な花を見られるのは当たり前じゃない。ゲームができるのは当たり前じゃない。呼吸ができるのは当たり前じゃない。当り前のことなんて、一つもなかった。哲学の始まりは、タウゼマイン(存在驚愕)だと言います。この世界が存在していること。これはあり得ないことです。存在しなくてもよかったのですから。ライプニッツか誰かが「世界はなぜないのではなくてあるのか」という問いを出し、確かホーキング博士が「宇宙はなぜ存在するという面倒なことをするのか」と言っていました。「存在」は当たり前ではありません。別の精子が卵子に到達していたら僕はいません。地球があるのも当たり前ではないですが、一番当り前でないのは「存在」です。だから、「存在」に「感謝」できること。これが日々を幸福に生きる秘訣なのだと思います。
世の中に、「反出生主義者」という人達がいます。この人たちは、基本的に親を呪っています。なんで俺を産んだんだ!と怒っています。生誕の災厄、という本がありますが、そういう主張をしている方々です。「出生」を呪うのだから、当り前のように、自分の人生も呪います。呪詛だらけです。彼らのTwitterを見ると、親や社会、運命への憎悪で満ち溢れています。僕は、彼らを、この世で一番不幸な人種であると思います。「ぶつぶつ(仏仏)言わなくなるのが仏だ」と何かの本に書いてありましたが、彼らはその真逆です。その割に、仏教の生老病死という厭世観だけをとりだして、自分の主義を強化しようとします。仏教は生老病死を乗り越える教えなのに…。
自分が幸福かどうかを決めるのは、心です。僕が一番貧しいと思う心の持ち主は、自分という存在の出生を呪っている「反出生主義者」です。ではこの反対を考えれば、幸福とは何かが分かるのではないでしょうか?
自分の出生を喜ぶこと。親に感謝すること。生きててよかったと思うこと。僕は、親が病気になり、常々この「感謝」ということを思うようになりました。当り前のことは、当り前じゃない、ということが分かってきました。健康なのは当り前じゃない、親がいるのは当たり前じゃない、毎日ご飯が食べられるのは当たり前じゃない。綺麗な花を見られるのは当たり前じゃない。ゲームができるのは当たり前じゃない。呼吸ができるのは当たり前じゃない。当り前のことなんて、一つもなかった。哲学の始まりは、タウゼマイン(存在驚愕)だと言います。この世界が存在していること。これはあり得ないことです。存在しなくてもよかったのですから。ライプニッツか誰かが「世界はなぜないのではなくてあるのか」という問いを出し、確かホーキング博士が「宇宙はなぜ存在するという面倒なことをするのか」と言っていました。「存在」は当たり前ではありません。別の精子が卵子に到達していたら僕はいません。地球があるのも当たり前ではないですが、一番当り前でないのは「存在」です。だから、「存在」に「感謝」できること。これが日々を幸福に生きる秘訣なのだと思います。
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