宗教的という生き方
曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた
そこには芸術も宗教もあった
いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである
宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い————宮沢賢治
唯物主義、個人主義、科学主義、虚無主義、これらの病魔が蔓延している近代、現代に、如何にして宗教的に生きるか。
僕は、この宗教的に生きるということが、QOLのために、物凄く大事だと思っている。別に組織に所属しなくてもいい。「宗教」をしなくてもいい。「宗教的」に生きる。
宗教的に生きる。宗教の核を取り出してみると、感謝、祈り、死、愛、だろう。これから日課にしようと思うこと。
愛の実践は難しいので置いといて、感謝。なんでもないようなことが、幸せだったと思う。なんでもない夜のこと二度とは戻れない夜。なんでもないような毎日に感謝して生きる事。妙好人のごとく、日々感謝しながら生きる事。人間が真に大人になるというのは、愚痴、呪詛だらけの毎日から、感謝の毎日になることだと思う。
祈り。毎日祈ろうと思う。祈りというのは「頭をさげる」ことである。自分を低くすることである。これは個人主義の解毒につかえる。祈ろうと思う。神に。死んでしまった友達に。
死。上記のこととも繋がるが、死んでしまった友達を毎日祈る。事故や事件のニュースを他人事として見ない。いつでも死はおこりえる。全部繋がっている。いつ死ぬか分からない生を生きている喜びへの感謝。
宗教的に生きるということ。当り前の日常に感謝すること。何か大きな存在へ頭を下げるということ。自分も明日死ぬかもしれないということを肝に銘じること。人を愛すこと。
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