南無
ネットで宗教の話をすると煙たがれることがある。それはもちろん某真理教の影響が一番デカいと思うが、それプラス近代の個人主義があるように思う。宗教嫌いの奥底に、近代人特有の傲慢さが透けて見える。「俺の人生は俺の人生。俺の人生を決めるのは俺。誰にも指図されたくないし、誰にもひざまずきたくない」僕も無宗教だが、そういう傲慢さは消していきたい。
けれど現実にはこういった個人主義者も恋愛関係によって他人に帰依していることが多いが、所詮凡夫に帰依してもあるのは無常という現実だけで、そこから得られる安心感は仮初のものである。南無彼氏。南無彼女。僕は南無彼氏するぐらいなら、南無阿弥陀仏をすればいいのにと思ってしまう。やっている行為の本質としては「思考によってなにかしらのイメージを作り上げ、それに安心感を持つ」というものなので、イメージと現実の剥離のない絶対者に南無したほうが安心感は得られると思う。
僕は「現実」に南無していきたい。南無現実。幸福にも南無していきたい。南無幸福。現実に南無をすると、幸福もついてくる。この一瞬を楽しむこと。
けれど現実にはこういった個人主義者も恋愛関係によって他人に帰依していることが多いが、所詮凡夫に帰依してもあるのは無常という現実だけで、そこから得られる安心感は仮初のものである。南無彼氏。南無彼女。僕は南無彼氏するぐらいなら、南無阿弥陀仏をすればいいのにと思ってしまう。やっている行為の本質としては「思考によってなにかしらのイメージを作り上げ、それに安心感を持つ」というものなので、イメージと現実の剥離のない絶対者に南無したほうが安心感は得られると思う。
僕は「現実」に南無していきたい。南無現実。幸福にも南無していきたい。南無幸福。現実に南無をすると、幸福もついてくる。この一瞬を楽しむこと。
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