きっと何者にもなれないお前たちに告げる
ぼくは意地悪どころか、結局、何者にもなれなかった−意地悪にも、お人好しにも、卑劣漢にも、正直者にも、英雄にも、虫けらにも。かくていま、ぼくは自分の片隅にひきこもって、残された人生を生きながら、およそ愚にもつかないひねくれた気休めに、わずかに刺戟を見いだしている、−賢い人間が本気で何者かになることなどできはしない、何かになれるのは馬鹿だけだ、などと。さよう、十九世紀の賢い人間は、どちらかといえば無性格な存在であるべきで、道義的にもその義務を負っているし、一方、性格をもった人間、つまり活動家は、どちらかといえば愚鈍な存在であるべきなのだ。————ドストエフスキー
人間は、本質的に「何者か」になることはできない。本質的、というのが肝である。人間は「何者でもない存在」から逃れることができないゆえに、絶望的に「何者か」になろうとする。その絶望的な努力は社会的地位の獲得だったり、何かを所有ことすることだったり、何かを作ることだったりするが、人間は絶対に「何者か」になることはできない。なぜそんなことが言えるのか?見ればわかる。「何者か」になっている人間は、もう「何者か」になろうとする努力はする必要がない。けれども世間を見ると、成功者になりたかったり、失敗者にしがみついていたり、メンヘラになりたかったり、イラストレーターになりたかったり、恋人になりたかったり、家族になりたかったり、配信者になりたかったり、何かに「なろう」という努力であふれかえっている。これは逆説的に人間は「何者か」になれないということを証明している。
自殺原因の第一位は「孤独」らしい。孤独になると、人間は何者にもなれない。人間は全員名前を持っているが、その名前の人間ですらなくなる。何物でもなくなる。何者でもない「誰か」は無名のまま自死を選ぶ。
何者にもなれないと嘆いている人間をよく見る。何者にもならなくていいんだよと肩に手を置いてあげたい。人間は裸で生まれて裸で死んでいく。金も権力も何もかも持っていたじいちゃんがこの前死んだ。灰になった。人間は何者にもなれない。
この事実を知った僕はどうすればいいだろうか?無名に徹する生き方をするしかない。そのままでいい。大丈夫。自分に言い聞かせる。
何かになろうとする願望が葛藤の始まりなのです。そしてその願望は、組み込まれたプログラムに従った脳の活動の一部です。————クリシュナムルティ
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