なんで生きてるんだろう
生まれては死ぬるなりけりおしなべて 釈迦も達磨も猫も杓子も
「なんで生きてるんだろう」という問いは「異常」である。「生き物」が問うべきではない問いである。問いというより「感情」に近いと思う。問いではないので、解くことはできない。なんで生きてるんだろうという感傷が心の中を陣取る。仏教的にどう対処するかと言えば、「忍耐」、これに尽きる。全ての感情は「自己」ではなく、無常で去来する一過性のただの気持ちである。これに「同一化」しないこと。問いそのものにならないこと。「なんで生きてるんだろうなあって問いが頭の中に浮かんでいるなあ」と自覚すること。そうするとすべては無常なので、そのうち消失する。生きていても絶対に解けない問いがある。そういう問いはその問いにハマりこまずに観察し、ひとりでに「溶ける」のを待つしかない。待っていれば溶ける、瞑想すれば溶ける、楽しいことすれば溶ける。
なんで生きてるんだろう 何も分からない 庭に毎日いた蜘蛛がいなくなった どこへ行ったんだろう 用水路にあったザリガニの屍骸がなくなった どこへ行ったんだろう 咲いたら散るのが理だろう 何もかも壊れ続けている 虚しくて溢れた夜の涙はどこへ行くのだろう 僕はどこへ行くのだろう あの子はどこへ行くのだろう 神社の境内にあった蜂の屍骸を蟻が運んでいた 幸福と死は通底しているんだろう 安らぎも救いも壊れ続けるんだろう 分解された屍骸は星になるんだろう 僕らは星の欠片 冬には雪が降る 冬は死の季節だけれど 星がきれいだ
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