懐疑主義
何も信じられない。偉い哲学者の言葉も、有名な文学者の言葉も、神様の言葉も何も信じられない。自分すら信じられない。自分も、やっていることと言っていることが違う。なんで生まれたのか分からない。なんで死ぬのか分からない。何も信じられない。これは多分一種の病気だ。懐疑というのは病気だ。懐疑は終わることがない。疑おうと思えば何でも疑える。自分の存在、世界の存在、お金の価値、なんでも疑える。疑っていることすら疑える。この病気は「信仰」か「瞑想(主観的実験)」によってしか癒えることがない、と今は思っている。僕はこの懐疑を哲学や文学で癒そうとしている人を見たことがあるが、そんなのは無理だ。何もかも決着した哲学者というのは、勘違いか自己欺瞞でしかない。
カーラーマ経というお経がある。カーラーマ族の人間が、増え続ける宗教市場の売人に向けて懐疑を向け、ブッダに何を信じればいいのか問う。ブッダは答える。
人の言うことを信じるなと言っている。この「人」にはもちろんブッダも入っている。伝統や社会を信じるな、頭の中だけの机上の空論を信じるなと言っている。何を信じればいいか?僕が唯一信じられそうなのは、主観的実験である。自分の体験である。自分の体験という顕微鏡を高級にしていくのが、瞑想である。
カーラーマ経というお経がある。カーラーマ族の人間が、増え続ける宗教市場の売人に向けて懐疑を向け、ブッダに何を信じればいいのか問う。ブッダは答える。
カーラーマ族の人々よ、あなたがたが疑うのは当然のことである。そして、疑いのあるところに惑まどいは起こるものである。
あなたがたはある説かれたものを真理として受け取るときに、
人々の耳に伝えられるもの、例えば秘伝や呪文じゅもん、神の啓示などに頼ってはいけない、
世代から世代へと伝え承けたからといって頼ってはいけない、
古くからの言い伝え、伝説、風説などに頼ってはいけない、
自分たちの聖書や教典に書いてあるからといって頼ってはいけない、
経験によらず頭のなかの理性(思弁)だけで考えることに頼ってはいけない、
理屈や理論に合っているからといってそれに頼ってはいけない、
人間がもともと持っている見解等に合っているからというような考察に頼ってはいけない、
自分の見方に(見けん)に合っているからというようなことだけで納得してはいけない、
説くものが立派な姿かたちをしているからといって頼ってはいけない、
説いた沙門が貴い師であるというような肩書などに誤魔化されてはいけない、
カーラーマ族の人々よ、もしあなたがたが、これは不善である、これは咎とがを持っている、これは智者によって非難されている、これらの行為は不利益と苦を招くものであると、自分自身で知るならば、あなたがたはそれらのことを捨て去るべきである。』
人の言うことを信じるなと言っている。この「人」にはもちろんブッダも入っている。伝統や社会を信じるな、頭の中だけの机上の空論を信じるなと言っている。何を信じればいいか?僕が唯一信じられそうなのは、主観的実験である。自分の体験である。自分の体験という顕微鏡を高級にしていくのが、瞑想である。
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