不幸 そのまま
 僕は、フロイトは非科学的だから、あんまり好きではないんだが、「超自我」という概念は最近かなり気に入っている。父親が、幼い子供に、あれしろこれしろ、あれはだめこれはだめ、と「教育」して、それが子供の「心」の一部になる。「心」の中に、常に「〜すべき」「〜はすべきではない」という社会的規範、道徳規範が居座ることになる。子供は親に反抗するすべがないので、必然的に、自分の心に「親」を飼うことになる。
僕は、父親に「俺は資本主義社会に生まれたから、いっぱい稼いでいっぱい贅沢したい」と言われたことがある。もしかしたら、僕の中にもそういう「超自我」が巣くっているのかもしれない。金持ちになるべき、人に影響を与えるべき、人に迷惑をかけてはいけない。
 
フロイトと対照的に、認知療法は科学的なエビデンスがあるので好きなんだけれど、認知療法ではよく「べき思考」を捨てろと教える。〜すべきという命令と、その命令に従っていない自分がいるとすれば、それが不幸の意識になる。金を儲けるべき、「だけど」僕はお金を持っていない。あの人のようになるべき、「だけど」私は無能だ。
内面化した社会、超自我が常に「べき」を押し付けてくる。どうすればいい?自分の状態を変えるか、自分の中にいる「親」「社会」を変えるしかない。
日本人は「あるがまま」が好きだとよく聞く。それは禅から来ているものだと思う。僕の好きな、ティクナットハンの言葉。
 
「ホッ」としないだろうか?僕はホッとする。言葉を読んで、「そのまま」を感じてもいいけれど、やっぱり一番は坐禅や瞑想だと思う。澤木興道によれば、坐禅は「自己ぎりの自己」になる行為(非行為?)だ。
あとは、南無阿弥陀仏。「そのままのお前で救う」「そのままのお前を照らす」これも、救いにならないだろうか。
「あるがまま」は、平安末期の仏教のように、安易な現状肯定に陥って、堕落する可能性もある。けれども、ちょっと疲れた人間は、「そのまんま」に休んでもいいんじゃなかろうか。
「そのまんまでいい」というのはとんでもない福音(グッドニュース)じゃなかろうか
					僕は、父親に「俺は資本主義社会に生まれたから、いっぱい稼いでいっぱい贅沢したい」と言われたことがある。もしかしたら、僕の中にもそういう「超自我」が巣くっているのかもしれない。金持ちになるべき、人に影響を与えるべき、人に迷惑をかけてはいけない。
フロイトと対照的に、認知療法は科学的なエビデンスがあるので好きなんだけれど、認知療法ではよく「べき思考」を捨てろと教える。〜すべきという命令と、その命令に従っていない自分がいるとすれば、それが不幸の意識になる。金を儲けるべき、「だけど」僕はお金を持っていない。あの人のようになるべき、「だけど」私は無能だ。
内面化した社会、超自我が常に「べき」を押し付けてくる。どうすればいい?自分の状態を変えるか、自分の中にいる「親」「社会」を変えるしかない。
日本人は「あるがまま」が好きだとよく聞く。それは禅から来ているものだと思う。僕の好きな、ティクナットハンの言葉。
私たちは「いまここ」にある幸せを見ずに、幸せが未来にあると信じているため、いつも走ることが習慣になっています。
走らないで止まってごらんなさい。
今のあなたは、そのままで素晴らしいのです。
他の人になろうとしないで下さい。あなたが探しているものは、すでにあなたの中にあります。
「ホッ」としないだろうか?僕はホッとする。言葉を読んで、「そのまま」を感じてもいいけれど、やっぱり一番は坐禅や瞑想だと思う。澤木興道によれば、坐禅は「自己ぎりの自己」になる行為(非行為?)だ。
あとは、南無阿弥陀仏。「そのままのお前で救う」「そのままのお前を照らす」これも、救いにならないだろうか。
「あるがまま」は、平安末期の仏教のように、安易な現状肯定に陥って、堕落する可能性もある。けれども、ちょっと疲れた人間は、「そのまんま」に休んでもいいんじゃなかろうか。
「そのまんまでいい」というのはとんでもない福音(グッドニュース)じゃなかろうか
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