余生
この社会を、準備社会と言った人がいる。いい中学へ入るために、小学生の頃から塾へ通って受験勉強をする。いい高校へ入るために、中学の三年間を勉強に費やす。いい大学へ入るために、高校の三年間を勉強三昧で過ごす。いい就職先へ入れるように大学のうちに資格をたくさんとったり、人脈を広げたりする。幸せな老後のために、子供を産んで年金を払って貯金をする。現代では、老後も準備に使われることがあって、そのことを「終活」と言ったりするらしい。時間が余らない。休むための時間は全部先延ばしにされる。
僕は常々、「余生」というのはいい言葉だなあと思う。余った生。余った人生。人生で何かを「達成」して、あとは気ままに、余った時の中で、たゆたう。
哲学は死への訓練だといったのはソクラテスとモンテーニュだが、僕は明らかに哲学や宗教を「死」への準備へ使っている。そして「南無阿弥陀仏」で一切が「完成」される、僕の人生の究極の目的である「死の超克」が「達成」される、という見込みがかなりついた。
僕は人間の生まれてきた「甲斐」というのは生死を克服することにあると思っているので、その準備が終わったあとは、全部余生だ。余生というのは気ままでいい。あってもなくてもいい。余りものなのだから。どういう余生でもいい。雑誌(死の克服)についてくるオマケのようなものなのだから。
「死の克服」という人生の目的は、20代でさっさと終わらせて、あとは悠々自適にオマケの余生を送りたい。
僕は常々、「余生」というのはいい言葉だなあと思う。余った生。余った人生。人生で何かを「達成」して、あとは気ままに、余った時の中で、たゆたう。
哲学は死への訓練だといったのはソクラテスとモンテーニュだが、僕は明らかに哲学や宗教を「死」への準備へ使っている。そして「南無阿弥陀仏」で一切が「完成」される、僕の人生の究極の目的である「死の超克」が「達成」される、という見込みがかなりついた。
僕は人間の生まれてきた「甲斐」というのは生死を克服することにあると思っているので、その準備が終わったあとは、全部余生だ。余生というのは気ままでいい。あってもなくてもいい。余りものなのだから。どういう余生でもいい。雑誌(死の克服)についてくるオマケのようなものなのだから。
「死の克服」という人生の目的は、20代でさっさと終わらせて、あとは悠々自適にオマケの余生を送りたい。
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