加茂仰順師
今月は加茂仰順という昭和のお坊さんの本を繰り返し読んでいる。一番良かったところを自分で読み返しやすいようにメモしておく。
自己の中にささやく声を聞け、それが聞けないものは、現実の師匠によって、自分の道を聞く。聴聞は、我々下輩の者に最も大切なことである。
私はいままで、ご開山さまが、計らうな、計らうなと申されるので、計ろうてはわるい。計らわぬようになろうと思うていた。
計らうなの仰せを聞くと、私の方で往生の世話をやめることであり、後生の心配をしないようになることであると、とにかく私が如来のご注文にしたがうことのように思うていた。そして、自分の心に順うたよい心と、順わぬわるい心と二つあるように思うていた。
ところがそのようなことではなかった。「計らうな」とは、如来が私へのご注文ではなく、また、私が如来の仰せを聞いてあげることでもなかった。まるきり、私の心に如来が順ってくだされたお言葉であった。「受けよ」とは「受けた」ということでもなく、「計らうな」とは「計らいません」ということでもない。「何がでてきてもいまの心のまま」ということである。お前の方には少しの心配はいらぬぞやと仰せられることである。それとも心配がしたいなら、その心配しているままが私の受け持ちであるで、安心しておれと仰せられることである。安心しておれねば安心しておれぬでおれ。そのあと始末はいらぬぞやと仰せられることである。
自力の心をふりすてるとは、わが思う心もすてねばならぬように思うはまちがいである。おのれに力みをいれるこころをすてるので、自分まで捨てるのではない。つまりおのが心の善悪に目をかけず、大悲を仰ぐところに、はやおのれを忘れておるのである。
ここにお同行の法の上の語らいぐさがあります。とてもはっきりした話ですので、耳をかたむけることにします。
さてお同行の問い一つ。
親様のご親切を思い出させてもらいますと、何ともありがとうてなりません。しかしまた何ともいえぬあさましい心が起こりますゆえ、これが私の心の本体である。これを喚んで下さる親様じゃと思うてみても、なかなか承知いたしません。
ああこんな心が起こるというは、まだ聞き不足ではあるまいか。実に一大事じゃと念を押します。これはいかがしたものでありましょうか。どうかおさとしをおねがいいたします。
これはお同行さん
ご当流は他力です。
如来様のお力一つで、私等が本当に聞いたところやなんどには、お助けのかげもありませんので、あなたがながい間聞いて、これで充分であり、少しも不足はないとなられたとて、往生の役には少しも立ちません。
私の手細工で、らちのつけられるうちは、まだ聴聞の分際です。いよいよらちのつけられぬのが機の真実です。
万一、らちがついたり、言い切られぬ思いの出てこぬようになられたならば、親様とは万劫のお別れになってしまいます。
如来様の本願は、凡夫にまるきりはたらかさず、助けるとあるのです。
どんな心が起こりても、そのしまつは凡夫にはさせぬとのお約束が、因位の昔にきまったのであります。そのお助けを聞くばかりです。
土が人形ともなり茶碗とのなるには、土がどれほどりきんでも駄目なことであります。みなそれを作る人の力です。往生はまかすもまかさぬもただただ如来の力によります。
助かるとは、十劫暁天より呼びづめに呼びたもうてある如来のお助けに助けられるのであります。暗いまま、明らかでないまま、理屈のつじつまのあわぬまま、何も分からぬまま、まどうているまま、どうすることもなしに助かるを弥陀のお助けというのであります。弥陀の御誓いであります。いつももやもやでありますが、海のような如来の大いなるお心、ゆったりされたお心に救われるのであります。
「そのままでゆくのじゃぞ」をたびたびお聞かせ頂いているうちに、宿善ここに開け、自分の本来の価値を知り、いまの位置に安住して、にっこりほほでんで、往生されたという幸せなお同行もありました。
さてそのつゆちりほども疑いなくとは、ご教化を機と法の分別なく聞き間違うから、ややもすれば、わが機をながめて、つゆちりほども疑ってはならぬとの御教化ではあるが、この心がすかっとならぬ。明らかにならぬ。こんなことではいかがか知らんと、わが胸をながめて、的にするゆえ、若存若亡することになる。
全体、つゆちりほども疑いなく信じまいらせろのご教化は、わが機をみて、疑い晴らせとのご教化ではなく、法のおてもとを見て、疑い晴れよとのご教化である。弥陀もお手元におかせられては、私のようなあさましき者を、この機のままをお引き受け下されて、大慈悲を以ってお助け下さる御心のお慈悲とは、つゆちりほども疑うところはございませんと、疑い晴れたわが後生に、すっくりと疑い晴れた信心である。
ところが、私たちの機ざまがあまりにも浅ましい、お救いの法には何とも文句ははいえないのに、この機にはとかく文句が起きます。しかし文句のいえる私の心で解決をつけるのではなく、文句のいえない如来の法で解決をつけて下さるのです。何十年聞いても何ともなれないのが私の心です。もしも何とかなれたときは、み親とはお別れの時です。なんともなれないこの心のなりで、「弥陀のてがらをさせてくれ」と仰せ下さるのです。しっかりなりたい、安心したいという心について廻るのではなく、私の逆法のすがたのすべてを入れて呼びたまうみ親の仰せをただ聞かせてもらうのです。あるお同行さんの述懐に「見にくさのすべてを入れて呼びましぬ、み親のみ胸に今日も安けし」とありますが、味わい深い言葉です。
つまり、如来のお救いをを聞きながら、その身になれん、そうは思えんという気持ちが起きてきて、自分の心にぐずぐずしています。この心がどうにかなったらお救いにあずかるかのように思い、なれんことをもがきます。ほんとにこの心が万劫の仇です。このたびこの心にうちとられるか、うちとられないですむか。でも既にこのすがたを如来は見抜いてくださいました。ようこそなあ、というほかはありません。見抜き違いのない如来のお救い聞き得させていただく私たちのしあわせをよろこばずにはおられません。
弥陀のご本願のお約束が、地獄真向きのままで仏にしよう、助からないものを助けようのおちかいであるから、仏とも法とも知らないときのなりでお浄土参りの仕度は充分である。
あなたの仰せを聞かせても、はねつけたり、逃げたりする心をお見抜きの上で、御身代わりをつとめて下されてあるから、にげまわす心のなりで、浄土へ参らせてくださるのである。
これを思うとき、どうしたお慈悲であろうかと喜ぶあとから、すぐに心がおかしなものになり、いやな心や、うろうろする心になってしまい、これではお慈悲が本当に届いてないのであろうかと思う。しかし、しかし、私の往生はお慈悲の届かないもとの姿なり、一度も安心したことのないままで、助けるお約束であったのである。
この心のなりをタノムすがたに成就され、ご本願に順うすがたに成就してあるのである。
それならば、いくら逃げ上手の私でも、不足の申しあげようはない。どうしても参らせていただくよりほかはない。
まことに隅から隅までお念仏のとどかせられたお仕掛けである。
自己の中にささやく声を聞け、それが聞けないものは、現実の師匠によって、自分の道を聞く。聴聞は、我々下輩の者に最も大切なことである。
私はいままで、ご開山さまが、計らうな、計らうなと申されるので、計ろうてはわるい。計らわぬようになろうと思うていた。
計らうなの仰せを聞くと、私の方で往生の世話をやめることであり、後生の心配をしないようになることであると、とにかく私が如来のご注文にしたがうことのように思うていた。そして、自分の心に順うたよい心と、順わぬわるい心と二つあるように思うていた。
ところがそのようなことではなかった。「計らうな」とは、如来が私へのご注文ではなく、また、私が如来の仰せを聞いてあげることでもなかった。まるきり、私の心に如来が順ってくだされたお言葉であった。「受けよ」とは「受けた」ということでもなく、「計らうな」とは「計らいません」ということでもない。「何がでてきてもいまの心のまま」ということである。お前の方には少しの心配はいらぬぞやと仰せられることである。それとも心配がしたいなら、その心配しているままが私の受け持ちであるで、安心しておれと仰せられることである。安心しておれねば安心しておれぬでおれ。そのあと始末はいらぬぞやと仰せられることである。
自力の心をふりすてるとは、わが思う心もすてねばならぬように思うはまちがいである。おのれに力みをいれるこころをすてるので、自分まで捨てるのではない。つまりおのが心の善悪に目をかけず、大悲を仰ぐところに、はやおのれを忘れておるのである。
ここにお同行の法の上の語らいぐさがあります。とてもはっきりした話ですので、耳をかたむけることにします。
さてお同行の問い一つ。
親様のご親切を思い出させてもらいますと、何ともありがとうてなりません。しかしまた何ともいえぬあさましい心が起こりますゆえ、これが私の心の本体である。これを喚んで下さる親様じゃと思うてみても、なかなか承知いたしません。
ああこんな心が起こるというは、まだ聞き不足ではあるまいか。実に一大事じゃと念を押します。これはいかがしたものでありましょうか。どうかおさとしをおねがいいたします。
これはお同行さん
ご当流は他力です。
如来様のお力一つで、私等が本当に聞いたところやなんどには、お助けのかげもありませんので、あなたがながい間聞いて、これで充分であり、少しも不足はないとなられたとて、往生の役には少しも立ちません。
私の手細工で、らちのつけられるうちは、まだ聴聞の分際です。いよいよらちのつけられぬのが機の真実です。
万一、らちがついたり、言い切られぬ思いの出てこぬようになられたならば、親様とは万劫のお別れになってしまいます。
如来様の本願は、凡夫にまるきりはたらかさず、助けるとあるのです。
どんな心が起こりても、そのしまつは凡夫にはさせぬとのお約束が、因位の昔にきまったのであります。そのお助けを聞くばかりです。
土が人形ともなり茶碗とのなるには、土がどれほどりきんでも駄目なことであります。みなそれを作る人の力です。往生はまかすもまかさぬもただただ如来の力によります。
助かるとは、十劫暁天より呼びづめに呼びたもうてある如来のお助けに助けられるのであります。暗いまま、明らかでないまま、理屈のつじつまのあわぬまま、何も分からぬまま、まどうているまま、どうすることもなしに助かるを弥陀のお助けというのであります。弥陀の御誓いであります。いつももやもやでありますが、海のような如来の大いなるお心、ゆったりされたお心に救われるのであります。
「そのままでゆくのじゃぞ」をたびたびお聞かせ頂いているうちに、宿善ここに開け、自分の本来の価値を知り、いまの位置に安住して、にっこりほほでんで、往生されたという幸せなお同行もありました。
さてそのつゆちりほども疑いなくとは、ご教化を機と法の分別なく聞き間違うから、ややもすれば、わが機をながめて、つゆちりほども疑ってはならぬとの御教化ではあるが、この心がすかっとならぬ。明らかにならぬ。こんなことではいかがか知らんと、わが胸をながめて、的にするゆえ、若存若亡することになる。
全体、つゆちりほども疑いなく信じまいらせろのご教化は、わが機をみて、疑い晴らせとのご教化ではなく、法のおてもとを見て、疑い晴れよとのご教化である。弥陀もお手元におかせられては、私のようなあさましき者を、この機のままをお引き受け下されて、大慈悲を以ってお助け下さる御心のお慈悲とは、つゆちりほども疑うところはございませんと、疑い晴れたわが後生に、すっくりと疑い晴れた信心である。
ところが、私たちの機ざまがあまりにも浅ましい、お救いの法には何とも文句ははいえないのに、この機にはとかく文句が起きます。しかし文句のいえる私の心で解決をつけるのではなく、文句のいえない如来の法で解決をつけて下さるのです。何十年聞いても何ともなれないのが私の心です。もしも何とかなれたときは、み親とはお別れの時です。なんともなれないこの心のなりで、「弥陀のてがらをさせてくれ」と仰せ下さるのです。しっかりなりたい、安心したいという心について廻るのではなく、私の逆法のすがたのすべてを入れて呼びたまうみ親の仰せをただ聞かせてもらうのです。あるお同行さんの述懐に「見にくさのすべてを入れて呼びましぬ、み親のみ胸に今日も安けし」とありますが、味わい深い言葉です。
つまり、如来のお救いをを聞きながら、その身になれん、そうは思えんという気持ちが起きてきて、自分の心にぐずぐずしています。この心がどうにかなったらお救いにあずかるかのように思い、なれんことをもがきます。ほんとにこの心が万劫の仇です。このたびこの心にうちとられるか、うちとられないですむか。でも既にこのすがたを如来は見抜いてくださいました。ようこそなあ、というほかはありません。見抜き違いのない如来のお救い聞き得させていただく私たちのしあわせをよろこばずにはおられません。
弥陀のご本願のお約束が、地獄真向きのままで仏にしよう、助からないものを助けようのおちかいであるから、仏とも法とも知らないときのなりでお浄土参りの仕度は充分である。
あなたの仰せを聞かせても、はねつけたり、逃げたりする心をお見抜きの上で、御身代わりをつとめて下されてあるから、にげまわす心のなりで、浄土へ参らせてくださるのである。
これを思うとき、どうしたお慈悲であろうかと喜ぶあとから、すぐに心がおかしなものになり、いやな心や、うろうろする心になってしまい、これではお慈悲が本当に届いてないのであろうかと思う。しかし、しかし、私の往生はお慈悲の届かないもとの姿なり、一度も安心したことのないままで、助けるお約束であったのである。
この心のなりをタノムすがたに成就され、ご本願に順うすがたに成就してあるのである。
それならば、いくら逃げ上手の私でも、不足の申しあげようはない。どうしても参らせていただくよりほかはない。
まことに隅から隅までお念仏のとどかせられたお仕掛けである。
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