一人一宇宙
われわれはだれでも世界と一緒に生まれ、世界と一緒に死ぬ。めいめい持っている世界はちがうのじゃから。—————澤木興道
今日は久々に社会系の本を読んでみた。可視化されない弱者と、可視化される弱者を対立させて、前者に同情を寄せているような内容だった。これは僕にも分かりやすい話だ。ネットはまさにこの対立が成立する場所だから。昔の友達に「きつねさん」という男の人がいて、この人が物凄いメンヘラで、自分の全身を切り刻んだ血まみれの写真をツイッターにあげていた。この人は結局家族に警察に通報されて、精神病棟に入るんだけれど、警察に連れていかれる前に、「僕が女の子だったら、手首を切るだけで誰かに構ってもらえたのに」とツイートしていた。たしかに、きつねさんが女だったら、手首を切るだけで、ネットのおじさんから「大丈夫?」「話聞こうか?」などとリプライが来てただろう。その意味できつねさんは透明な弱者で(キモいメンヘラおじさんだから)誰にも構ってもらえずに血まみれになるヤバい人でしかない。
確かにツラがよかったり若い女だったりすると、精神障碍者でもネットで「生きる」ことができる。昔僕はTwitterでよく「ニートの男がネットをサバイヴするのは難しい」とツイートしていた。前書いた短歌「誰からも、愛されないまま死んでいくそこのカラス、俺はお前だ」
ただ僕は「弱者」という言葉があまり気に入らない。弱者って誰なんだろう。誰かに相手にされる弱者と、誰にも相手にされない弱者がいる。僕はどっちかと言えば相手にされない弱者だろう。中卒だし、職もないし、男だし、引きこもりだし、甲斐性がないし、ツラもよくない。ただ、僕は他人に「可視化」されることが救いになるとかそういうことは思わない。僕は僕の世界があるから。僕が死んで、誰も覚えてなくても、一向にかまわない。
「個人」というのはこの身体ではなくて、この「夢」自体を指す。一人一人、世界を持つ。一人一人違う夢を見ている。身体が自分なのではなくて、夢が自分だ。一人一人の持っている「宇宙性」みたいなもの、それが「尊厳」であり、それがある限り、個人を「束ねる」ことにはあんまり賛同できない。
ホームレスを弱者だという言説が、ホームレス個人の「宇宙性」を傷つけているように思う。そういう価値観を再生産している。インドでは家を捨てた人は聖者だ。
わたしを束ねないで
あらせいとうの花のように
白い葱のように
束ねないでください わたしは稲穂
秋 大地が胸を焦がす
見渡すかぎりの金色の稲穂
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