唯識仏教
「全部夢」とかのたまいながら、唯識仏教のことを完全に失念していた。唯識仏教というのは文字通り唯(ただ)識(こころ)という意味で、全部は心の「展開」という主張の大乗仏教である。
というわけで、唯識の解説書をちょっと読んでみた。ざっくり言うと阿頼耶識という深層意識が2つに分かれて、それが「見る意識」と「見られる意識」になるらしい。
この客観世界は見られる心で、この主観は見る心。
「人人唯識」という言葉があるらしい。解説書には「一人一つの宇宙を持っていること」と書かれてあった。今の僕の生きている実感に非常に近い。朝起きることをビッグバンになぞらえていた。この世に生き物が生まれることは宇宙創成と同じ意味を持つ。
この客観世界というものは存在せずに、ただそれを解釈するものがあるだけというニーチェにも通じるものを感じる。ニーチェは力への意志を力への意志が解釈すると言ったけれど、唯識仏教的には「真如」を「エゴ」が解釈する。一人一人持ってる心が違うのに、なぜ同じような景色が見えるのか、と疑問が湧いたけれど、それはこの「真如」が存在しているから、というのが答えだと思う。
一人一人違う「世界」を持っている。同じ「お金」を見ても、乞食が見るお金、王様が見るお金、病人が見るお金、僕が見るお金、あなたが見るお金、全部違う。自分が見るもの聞こえるものが全部「自分=夢」であり、それは人それぞれ違う。
「夢以前」の「真如」が「神」とか「如来」と言われるもので、その絶対界からこの「夢」に現れるものが、「南無阿弥陀仏」である。
というわけで、唯識の解説書をちょっと読んでみた。ざっくり言うと阿頼耶識という深層意識が2つに分かれて、それが「見る意識」と「見られる意識」になるらしい。
この客観世界は見られる心で、この主観は見る心。
「人人唯識」という言葉があるらしい。解説書には「一人一つの宇宙を持っていること」と書かれてあった。今の僕の生きている実感に非常に近い。朝起きることをビッグバンになぞらえていた。この世に生き物が生まれることは宇宙創成と同じ意味を持つ。
この客観世界というものは存在せずに、ただそれを解釈するものがあるだけというニーチェにも通じるものを感じる。ニーチェは力への意志を力への意志が解釈すると言ったけれど、唯識仏教的には「真如」を「エゴ」が解釈する。一人一人持ってる心が違うのに、なぜ同じような景色が見えるのか、と疑問が湧いたけれど、それはこの「真如」が存在しているから、というのが答えだと思う。
一人一人違う「世界」を持っている。同じ「お金」を見ても、乞食が見るお金、王様が見るお金、病人が見るお金、僕が見るお金、あなたが見るお金、全部違う。自分が見るもの聞こえるものが全部「自分=夢」であり、それは人それぞれ違う。
「夢以前」の「真如」が「神」とか「如来」と言われるもので、その絶対界からこの「夢」に現れるものが、「南無阿弥陀仏」である。
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