虚無屋さん
僕の人生は虚無という化け物との闘いであって、そこには野原もなければ花もなく、家もなければサボテンもなく、荒涼とした砂漠が広がっているだけで、おおよそ価値のあるものは見つからなかった、なぜなら人類はもうすぐ絶滅してしまうから。虚無は家族であり、友達であり、学校であり、至る所に虚無の影が忍び寄り、この平板な地表の上で、虚無の手から逃れ去るのは不可能であり、山を越えても虚無がいる、アメリカへ行っても虚無がいる、月へ行っても虚無がいる、僕はお釈迦さまの手の上で踊っている孫悟空のようなもので、つまるところ僕自身が虚無なのだ。8月の太陽がいくら僕の頭上で輝こうと、僕には僕の影があり、影を追っ払おうとしても、影は人懐っこく付いてくる。
虚無というのはこのような性質のもので、世界中が全て虚無に覆われているとも言えるし、僕自身が虚無だとも言えるが、この世界が虚無でないと信じながら生きている人も世界にはたくさんいる。はい、そこの君、虚無でないものとはなんですか?自分の子供?自分の子供はいずれ死にます。恋愛?君も女も死にます。金?いずれ君は死にます。知識?教養?革命?死んでしまえ。
人生は凄く単純なもので、人生の本質は「生きて死ぬ」ということだけ、あとのことは枝葉末節の、どうでもいいことだと思う。恋をしたり、病気になったり、コンクールで優勝をしたり、出世をしたり、そんなのは動物の求愛行動や雄ザルの権力争いと似たようなもので、重要なことじゃない。世界は物凄くシンプルで、「生きて」「死ぬ」だけだ。僕は、ソクラテスになりたいと思うことがある。何も書き残さずに、躊躇なく毒杯を飲んで、死んでしまったソクラテスになりたい。
しかし歴史は虚無で、未来も虚無であり、現在も虚無である。コンクリート色の虚無が勝ち誇ったように屹立し、砂漠にいる虫を冷たい腕で抱擁する。
僕は言葉が嫌いだ。言葉は虚無を覆い隠し、事態を複雑な方へ、複雑な方へと導いていく。生まれた、生きた、死んだ。猫ならこのような描写で済ませるのに、人間の人生となると「こちたき」言説が手品のように湧き出てくる。全てが虚無だと知らない人間は無自覚の手品師で、全てが虚無だと知らない人間は、立派なご演説に見事に騙される。全てが冗談、何かの悪戯のような悪趣味な劇で、僕のような訳知りの人間は吐き気がする。
善も悪もない。生と死だけがある。哲学は死の練習だと古代の哲学者は口を揃えて言っているが、まさにその通りで、死への練習にならない哲学など、なんの意味もない。議論のための議論のような、虚無以下の哲学をやっている人間は・・・。因果関係がどうあっても概念がどうあっても全ては観念でも全ては実在でも我考える故に我あっても神は死んでも自然即神であっても、そんなのはどうだっていい。「生きて死ぬ」
生きて死ぬという球体の周縁を、惑星のように回っているものを取っ払って、コアの部分を変質させるには、
これは僕が2年前か3年前に書いた小説の一節なんだけれど、今でもこのスタンスは変わっていなくて、「結局は全員死ぬので全てが無駄」という底抜けの虚無からどう抜け出すかが僕の人生の全てであって、それ以外は全部おまけだ。
虚無というのは僕にとっては敵でありライバルであり殺すべきものであるが、僕が人生をかけて戦っている虚無を「売り物」にする人達がいて、そういう人間は僕のよきライバルを商品化することによって価値を下げているようで、本当に見ていてきついものがある。
僕が一番嫌いな人間は「結局死ぬから何もかも無駄」に浸りきって生きている人間だ。お坊さんにもそういうお坊さんがいる。哲学者にもそういう哲学者がいる。ミュージシャンにもそういうミュージシャンがいる。詩人にもそういう詩人がいる。宗教家や哲学者はお金や名声目的ではなくただひたすら虚無と戦っている場合もあるけれど、ミュージシャンや詩人は「どうせ生きる意味はないんです そんな僕は可哀そうです」とひたすら泣いていて、はっきり言って幼稚だと思う。生まれてきた意味がないんだったら、お金のためにセックスのために名声のために虚無を売るのをさっさとやめて、宗教をやるか自殺をしろと思う。僕の敵である「虚無」を売り物にされるのが本当に許せない。最低最悪で最高に神聖な虚無を我欲に使って欲しくない。
昨日そういう話をアマザラシの好きな女と話した。
アマザラシは「僕たちって生きている意味なんかないんだよ 悲しいね 可哀そうだね」とひたすら歌っているだけなので本当にただのゴミで、大森靖子は僕は好きなんだけれど、それは永遠性への志向があるからだと思う。さっき聞いた曲だと
ぼくを生きるのはぼくだ
きみを生きるのはきみだ
それが交わるとかありえない
心は "ひとりひとつ" 付き合おうが
まぐわろうが 歌おうが 結婚しようが
なんとなく "ふたりがひとつ" そんな気になれるだけ
気持ち悪い 気持ち悪い 気持ち悪い その先にだけ
なぁ "ひとつ" じゃない "むげん" が拡がれよ
詩や音楽で「虚無」を扱うには、「限りなき美しさ」か「宗教性(永遠性)」のどちらかがないと、ただ虚無に酔っている、虚無を売り物をしている卑怯者になる。僕はアマザラシが嫌いだ。
アマザラシは熱狂的なファンがいて「虚無主義に抗え」というスローガンでいろいろやっているが、ただ一人のアーティストが虚無主義を乗り越えられるわけがなく、僕には「虚無主義で自己陶酔しろ」としか思えない。
だって神様も悪人 だって事はガキだって知ってるぜ
泣いても喚いても祈っても こんな世界に生れ落ちたのが証拠
人生そんなもんなのかもね 諦めは早けりゃ早い方がいい
僕は僕を諦めたぜ 生まれてすぐさま諦めたぜ
穴を掘っている 背中に銃を突きつけられて
穴を掘っている 自分が入る穴を掘っている
全くくだらない 一生だったな笑えるぜ
頭にくるぜ なんで僕ばっかり
この人生をバラバラにしちまう勢いで
穴を掘っている 穴を掘っている
穴を掘っている 穴を掘っている
しょうもない
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