根拠
当り前だが、自己には根拠がない。現代人の人生は、自己の根拠を探す旅だと言ってもいいだろう。様々な根拠を、拾い集める。まずは、母親からのまなざし。学校でいい成績を修める。高学歴になる。高収入になる。理想のパートナーを拾う。注目を浴びる人になる。これらは全て、自己の根拠をかき集める行為である。
名前は、俺ではない。学歴は、俺ではない。身体は、俺ではない。収入は、俺ではない。部長という肩書は、俺ではない。夫という肩書は、俺ではない。みんなの視線にある先の人間は俺ではない。
日本は戦後、共同体が破壊されて、バラバラの個人主義になった。村社会では濃密に役割が決められていたので、自分は誰かというアイデンティティが揺らぐことはなくなったが、この流動性のある承認ゲームの中で、自分という根拠を探すのは、相当大変である。
詩や漫画などの同人誌を自分で作って、自分で販売している人を最近よく見かける。「漫画家」という肩書や「詩人」という肩書、他人からの承認という根拠が欲しいんだろう。けれども、全ては流動する。自己の根拠は流動する。病気になって働けなくなる中年は自殺率が高い。仕事が自分の根拠だったから。家族がいなくなり、孤独になると、人間は自殺する。家族からの承認=根拠がなくなるから。
流動する社会の中で、変わらない根拠がある。それは「南無阿弥陀仏」である。阿弥陀からの慈悲である。阿弥陀からの承認である。
名前は、俺ではない。学歴は、俺ではない。身体は、俺ではない。収入は、俺ではない。部長という肩書は、俺ではない。夫という肩書は、俺ではない。みんなの視線にある先の人間は俺ではない。
日本は戦後、共同体が破壊されて、バラバラの個人主義になった。村社会では濃密に役割が決められていたので、自分は誰かというアイデンティティが揺らぐことはなくなったが、この流動性のある承認ゲームの中で、自分という根拠を探すのは、相当大変である。
詩や漫画などの同人誌を自分で作って、自分で販売している人を最近よく見かける。「漫画家」という肩書や「詩人」という肩書、他人からの承認という根拠が欲しいんだろう。けれども、全ては流動する。自己の根拠は流動する。病気になって働けなくなる中年は自殺率が高い。仕事が自分の根拠だったから。家族がいなくなり、孤独になると、人間は自殺する。家族からの承認=根拠がなくなるから。
流動する社会の中で、変わらない根拠がある。それは「南無阿弥陀仏」である。阿弥陀からの慈悲である。阿弥陀からの承認である。
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。
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