表現
ハイデガーに「ポイエーシス」と「テクネ―」という概念があるらしい。仏教の本に書いてあった。ポイエーシスは「ポエム」の語源のギリシャ語で、「自発性」という意味があるらしく、テクネ―は多分「テクニック」の語源のギリシャ語で、「技術」という意味がある。これは僕が漠然と考えていた「無心」と「我執」の概念と重なる。
ギリシャ人は「詩」というものは、神が詩人に憑依して書かれるものだと思っていたので、その詩人の自意識とは一切関係なく、どこかから「ポイエーシス的」に湧いてくるものだと思っていたらしい。今の言葉で言えば無意識かな。
僕はこのポイエーシス的表現とテクネー的表現という区別を表すために「何がやりたいのか透けて見える表現はくだらない」とか「自意識の混じり具合によって作品の優劣がつく」とか言ってたが、この2つの概念で上手く区別することができそう。ポイエーシス的な表現は良い。テクネ―的表現は悪い。
自発的な表現は良い。操作的な表現は悪い。無心の表現は良い。我執の表現は悪い。神がかりの表現は良い。人間技の表現は悪い。
無心の表現者には、ブッダ、一遍、宮沢賢治、禅語、アウトサイダーアートなどが思いつくけれど、他にも超一流と言われるクリエイターは多分無心で作品を作っていると思う、とても計算されて作られたものだとは思えないから。けれども「虚栄心」という名前の我執を吹っ飛ばすための才能というのはめちゃくちゃデカくなければならない、あっという間に我執に飲み込まれてしまう。我執の表現者には原口統三とかニーチェが思いつく。徹底的に自閉的な表現。これを嫌う人もいるだろうが、僕は逆に行きつくところまで行ったという感じ、リアルな感じが好きである。
大体の表現者、凡人は中間ぐらいにいる。それを僕は「しょうもない」と言っている。作者の「臭み」がする表現は気持ちが悪い。超天才か、ハクチか、我執の一切ない作者の表現だけがリアルだ。
ギリシャ人は「詩」というものは、神が詩人に憑依して書かれるものだと思っていたので、その詩人の自意識とは一切関係なく、どこかから「ポイエーシス的」に湧いてくるものだと思っていたらしい。今の言葉で言えば無意識かな。
僕はこのポイエーシス的表現とテクネー的表現という区別を表すために「何がやりたいのか透けて見える表現はくだらない」とか「自意識の混じり具合によって作品の優劣がつく」とか言ってたが、この2つの概念で上手く区別することができそう。ポイエーシス的な表現は良い。テクネ―的表現は悪い。
自発的な表現は良い。操作的な表現は悪い。無心の表現は良い。我執の表現は悪い。神がかりの表現は良い。人間技の表現は悪い。
無心の表現者には、ブッダ、一遍、宮沢賢治、禅語、アウトサイダーアートなどが思いつくけれど、他にも超一流と言われるクリエイターは多分無心で作品を作っていると思う、とても計算されて作られたものだとは思えないから。けれども「虚栄心」という名前の我執を吹っ飛ばすための才能というのはめちゃくちゃデカくなければならない、あっという間に我執に飲み込まれてしまう。我執の表現者には原口統三とかニーチェが思いつく。徹底的に自閉的な表現。これを嫌う人もいるだろうが、僕は逆に行きつくところまで行ったという感じ、リアルな感じが好きである。
大体の表現者、凡人は中間ぐらいにいる。それを僕は「しょうもない」と言っている。作者の「臭み」がする表現は気持ちが悪い。超天才か、ハクチか、我執の一切ない作者の表現だけがリアルだ。
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