死
「死」と「死ぬこと」を分けて考えることが大切だと習った。
ぼくたちは自分の「死」を経験することはできない。だから「死ぬこと」の意味づけのほうが重要だ。
ある人類学者によると、未開の民族は「死ぬこと」をほとんど現世の地続きだと考えているらしい。現代の日本のように、死ぬことを語ることができないような状況ではなく、死ぬことが日常会話に挙がったりもする。来世は極楽でも地獄でもなく、今よりちょっぴり良いような世界だ。食べ物が食い放題とかではなくて、毎年豊作だとかそういうささやかな幸せがあるらしい。
ではなぜ、現代日本で死ぬことがタブー視されるようになったのかというと、自己が肥大化して、自分が世界を所有しているという意識を持つようになったからだ。昔の大王たちのように。大王たちがなぜピラミッドや古墳のような巨大な墓を作ったのか。もちろん権力の誇示という側面もあろうが、やはり一番は死ぬことを恐れるからだろう。中国の始皇帝は不老不死のクスリを探させた。現代人もこの大王たちと同じ意識になっているということ。しかしこの自己肥大妄想はたかだか一万年ぐらいの歴史しかない。
ということが教科書に書いてあった。僕は死ぬのがとても怖いんだけれど、死の恐怖を追い払うには「死ぬこと」の意味づけを変えるしかないんだなって思った。具体的には、別の文化を勉強して、今のままでは絶対視してしまっている「死ぬこと」への意識を相対化する必要がある。死んだらおしまい、死んでも世界はずっと続く、無、という意識は相対化されうる。
そういう意味では宗教も学ぶ意義があると思う。信仰するためではなくて、自分の頑固な意識を砕くために。
ぼくたちは自分の「死」を経験することはできない。だから「死ぬこと」の意味づけのほうが重要だ。
ある人類学者によると、未開の民族は「死ぬこと」をほとんど現世の地続きだと考えているらしい。現代の日本のように、死ぬことを語ることができないような状況ではなく、死ぬことが日常会話に挙がったりもする。来世は極楽でも地獄でもなく、今よりちょっぴり良いような世界だ。食べ物が食い放題とかではなくて、毎年豊作だとかそういうささやかな幸せがあるらしい。
ではなぜ、現代日本で死ぬことがタブー視されるようになったのかというと、自己が肥大化して、自分が世界を所有しているという意識を持つようになったからだ。昔の大王たちのように。大王たちがなぜピラミッドや古墳のような巨大な墓を作ったのか。もちろん権力の誇示という側面もあろうが、やはり一番は死ぬことを恐れるからだろう。中国の始皇帝は不老不死のクスリを探させた。現代人もこの大王たちと同じ意識になっているということ。しかしこの自己肥大妄想はたかだか一万年ぐらいの歴史しかない。
ということが教科書に書いてあった。僕は死ぬのがとても怖いんだけれど、死の恐怖を追い払うには「死ぬこと」の意味づけを変えるしかないんだなって思った。具体的には、別の文化を勉強して、今のままでは絶対視してしまっている「死ぬこと」への意識を相対化する必要がある。死んだらおしまい、死んでも世界はずっと続く、無、という意識は相対化されうる。
そういう意味では宗教も学ぶ意義があると思う。信仰するためではなくて、自分の頑固な意識を砕くために。
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