6月25日
エチカの2部まで読み終わった。6月8日に届いてから毎日読んでたんだけれど、ようやく5分の2が終わった。1部と2部は形而上学的な話や認識論の話で難解だった。3部からは感情の話や倫理の話なのであんまり肩肘を張らずに読めると思う。具体例を多く使いながら自分なりにまとめてみたい。
1部
世界は実体と属性と様態からできている。実体というのはそれ自身の本質に「存在」が含まれているもので、属性というのは実体の側面、様態というのは実体の表面、表現である。スピノザによれば実体はこの世でただ一つであり、無限であり、神即ち自然である。実体はそれ自体で存在するが、存在というのは静的な意味ではなく、動的な意味である。つまり「存在」を行っている。英語の現在進行形のようなものだと思ってる。属性は実体の側面で、無限にある。ただし、有限である人間は「延長」と「思惟」しか認識することができない。延長と思惟については第2部で触れる。様態というのは実体の表現(表面と考えると分かりやすいと思う)であり、この世の個物全体のことだ。例えると、キャンバスが実体、キャンバスのモノとしての側面が「延長」という属性、キャンバスの観念としての側面が「思惟」という属性、絵が様態ってところかな。まとめてみる。
実体とは
・神である
・無限である
・自己原因的である、つまりそれ自体で存在する
・永遠である
属性とは
・実体=神=世界の側面である
・無限の種類がある
・人間には「延長」と「思惟」しか認識できない
様態とは
・個物である
・有限である
・実体に依存して存在している
この書物はエチカという題名の通り、倫理の書だ。だからこの形而上学も倫理に関係している。3〜5部は解説書でしか読んでないからどう繋がっているのか分からないけれど、定理26の必然性についての議論や定理28の因果性の議論が関わってくるのかなって思う。スピノザはとことん決定論で、人間には目的も欲望もないと言ってる。人間には「衝動」があるだけで「欲望」はない。衝動というのは無意識な動力因のことで、この辺がフロイトに影響を与えたんだなって思う。僕が散歩に行くのも本を読むのも飯を食うのも全て衝動だ。スピノザでは、神の有限化した限りでの様態か無限に連鎖する。僕の衝動aから衝動bが生じて、それが無限に続く。機械論みたいなもんだ。解説書には神に裏付けされた機械論だと書かれているけれど、僕はこんなのはただの機械論だと思う。第2部を先取りしてしまうけど、思惟も神の様態なので、その連鎖が無限に続くってところは機械論的ではないかも。ホッブズとは対立するところだ。
あと世界はすべて神だという結論から世界への愛が生まれてきたりするみたいなことが書かれてたかも。でも倫理の書として重要なのは人間は無意識の衝動に必然的に支配されているってことだと思う。この主張から感情重視の哲学が導かれる。
第2部
「思惟」と「延長」は同じもの(実体=神)の2つの属性だから、この2つは結局同じものだと主張される。「延長」が実体の属性ってのは分かりやすいと思う。このPCもこの机も僕も「延長」だから。それに対して「思惟」が実体の属性というのは分かりづらい。分かりづらいのはここで思惟の主体が誰なのかよくわからないからだと思う。この思惟の主体は「有限化された様態である限りでの神」だ。どういうことかというと、例えば消しゴムが机の上から落ちるとする。机の上にある消しゴムをaとして、床に落ちた消しゴムをbとする。そうするとこの場面は消しゴムa→消しゴムbと記述できる。この消しゴムaが消しゴムbを思惟してるということ。消しゴムaが思惟するってのは理解できないかもしれないけれど、これはあくまでも神だから、思惟することができる。スピノザ曰く、全ての物質には魂が宿っている。
では人間はどうかと言うと、人間の「精神」は「身体」の観念である。僕もここはなかなか呑み込めなかったんだけれど、「身体の変様」の観念と考えたら分かりやすかった。
例えば僕は服を着ている自分の身体感覚がある。それは服と自分の身体がぶつかり合うことで身体a(裸の身体)が身体b(服を着た身体)に変様しているということだ。これはさっきの消しゴムの例と同じ構造になっている。多分こういうことだろうと思う。触覚だけではなくて、視覚や聴覚にも同じことがいえる。それらは目を刺激したり耳を刺激することだから。(刺激のない目→刺激のある目、刺激のない耳→刺激のある耳)
僕がえんぴつを見るとする。そうすると「身体の変様」は「身体」+「鉛筆(からの光)」ということになる。だから、身体の変様は非十全だ。なぜなら、身体を認識しようとしても、鉛筆を認識しようとしても、身体の変様を認識している限り、どちらか一方を認識することができないからだ。つまり身体を認識しようとすれば鉛筆が邪魔になり、鉛筆を認識しようとすれば身体が邪魔になる。
大筋はこんなものだと思う。ここで倫理に重要なのは認識の3種類の区別だと思う。
感覚的な認識、理性的な認識、直観的な認識の3種類がある。感覚的な認識は先ほどの身体の変様の認識で、理性的な認識は感覚的な個体を多数見ることで、一致点や差異を把握して共通概念を作ること。直観は様態てはなくて実体を認識することだ。(と思う)
第一部と第二部はこんなものだと思う。誰か哲学に詳しい人がいたら間違ってるところ訂正してくれたら嬉しいです。
1部
世界は実体と属性と様態からできている。実体というのはそれ自身の本質に「存在」が含まれているもので、属性というのは実体の側面、様態というのは実体の表面、表現である。スピノザによれば実体はこの世でただ一つであり、無限であり、神即ち自然である。実体はそれ自体で存在するが、存在というのは静的な意味ではなく、動的な意味である。つまり「存在」を行っている。英語の現在進行形のようなものだと思ってる。属性は実体の側面で、無限にある。ただし、有限である人間は「延長」と「思惟」しか認識することができない。延長と思惟については第2部で触れる。様態というのは実体の表現(表面と考えると分かりやすいと思う)であり、この世の個物全体のことだ。例えると、キャンバスが実体、キャンバスのモノとしての側面が「延長」という属性、キャンバスの観念としての側面が「思惟」という属性、絵が様態ってところかな。まとめてみる。
実体とは
・神である
・無限である
・自己原因的である、つまりそれ自体で存在する
・永遠である
属性とは
・実体=神=世界の側面である
・無限の種類がある
・人間には「延長」と「思惟」しか認識できない
様態とは
・個物である
・有限である
・実体に依存して存在している
この書物はエチカという題名の通り、倫理の書だ。だからこの形而上学も倫理に関係している。3〜5部は解説書でしか読んでないからどう繋がっているのか分からないけれど、定理26の必然性についての議論や定理28の因果性の議論が関わってくるのかなって思う。スピノザはとことん決定論で、人間には目的も欲望もないと言ってる。人間には「衝動」があるだけで「欲望」はない。衝動というのは無意識な動力因のことで、この辺がフロイトに影響を与えたんだなって思う。僕が散歩に行くのも本を読むのも飯を食うのも全て衝動だ。スピノザでは、神の有限化した限りでの様態か無限に連鎖する。僕の衝動aから衝動bが生じて、それが無限に続く。機械論みたいなもんだ。解説書には神に裏付けされた機械論だと書かれているけれど、僕はこんなのはただの機械論だと思う。第2部を先取りしてしまうけど、思惟も神の様態なので、その連鎖が無限に続くってところは機械論的ではないかも。ホッブズとは対立するところだ。
あと世界はすべて神だという結論から世界への愛が生まれてきたりするみたいなことが書かれてたかも。でも倫理の書として重要なのは人間は無意識の衝動に必然的に支配されているってことだと思う。この主張から感情重視の哲学が導かれる。
第2部
「思惟」と「延長」は同じもの(実体=神)の2つの属性だから、この2つは結局同じものだと主張される。「延長」が実体の属性ってのは分かりやすいと思う。このPCもこの机も僕も「延長」だから。それに対して「思惟」が実体の属性というのは分かりづらい。分かりづらいのはここで思惟の主体が誰なのかよくわからないからだと思う。この思惟の主体は「有限化された様態である限りでの神」だ。どういうことかというと、例えば消しゴムが机の上から落ちるとする。机の上にある消しゴムをaとして、床に落ちた消しゴムをbとする。そうするとこの場面は消しゴムa→消しゴムbと記述できる。この消しゴムaが消しゴムbを思惟してるということ。消しゴムaが思惟するってのは理解できないかもしれないけれど、これはあくまでも神だから、思惟することができる。スピノザ曰く、全ての物質には魂が宿っている。
では人間はどうかと言うと、人間の「精神」は「身体」の観念である。僕もここはなかなか呑み込めなかったんだけれど、「身体の変様」の観念と考えたら分かりやすかった。
例えば僕は服を着ている自分の身体感覚がある。それは服と自分の身体がぶつかり合うことで身体a(裸の身体)が身体b(服を着た身体)に変様しているということだ。これはさっきの消しゴムの例と同じ構造になっている。多分こういうことだろうと思う。触覚だけではなくて、視覚や聴覚にも同じことがいえる。それらは目を刺激したり耳を刺激することだから。(刺激のない目→刺激のある目、刺激のない耳→刺激のある耳)
僕がえんぴつを見るとする。そうすると「身体の変様」は「身体」+「鉛筆(からの光)」ということになる。だから、身体の変様は非十全だ。なぜなら、身体を認識しようとしても、鉛筆を認識しようとしても、身体の変様を認識している限り、どちらか一方を認識することができないからだ。つまり身体を認識しようとすれば鉛筆が邪魔になり、鉛筆を認識しようとすれば身体が邪魔になる。
大筋はこんなものだと思う。ここで倫理に重要なのは認識の3種類の区別だと思う。
感覚的な認識、理性的な認識、直観的な認識の3種類がある。感覚的な認識は先ほどの身体の変様の認識で、理性的な認識は感覚的な個体を多数見ることで、一致点や差異を把握して共通概念を作ること。直観は様態てはなくて実体を認識することだ。(と思う)
第一部と第二部はこんなものだと思う。誰か哲学に詳しい人がいたら間違ってるところ訂正してくれたら嬉しいです。
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