6月15日
11時に起きた。
『観念論の教室』という本を読んだ。
観念論について、バークリーを主軸に書かれていた。
分かりやすくていい本だと思った。
ジョンロックという人によると、目に見えるものや聞こえるものは全て"観念"だけど、その観念のベールの向こう側に"本当の物"があるらしい。ジョージバークリーはその説を否定して、本当の物はない・あるのは観念だけだ、と言ったらしい。
この世には観念しかないから、因果関係なんてものはなくて、りんごが木から落ちるのは神の意志らしい。
エチカが難解すぎて、精神が病む。今日なんとなく理解したところ
思惟は神の様態である。思惟は延長の肯定である。そして人間の精神は身体の肯定である。
頭がおかしくなりそう。例えば、僕がキーボードを触る。そうすると、キーボードに触れている部分の身体=様態が変状する。(キーボードに触れていない)指a→(キーボードに触れている)指bという風に様態が変化する。そして思惟の属性である限りの神がこの運動を、あるがままに肯定する。指aである神が指bを思惟する。そこに身体感覚が宿る。
よくわからない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『観念論の教室』という本を読んだ。
観念論について、バークリーを主軸に書かれていた。
分かりやすくていい本だと思った。
ジョンロックという人によると、目に見えるものや聞こえるものは全て"観念"だけど、その観念のベールの向こう側に"本当の物"があるらしい。ジョージバークリーはその説を否定して、本当の物はない・あるのは観念だけだ、と言ったらしい。
この世には観念しかないから、因果関係なんてものはなくて、りんごが木から落ちるのは神の意志らしい。
エチカが難解すぎて、精神が病む。今日なんとなく理解したところ
思惟は神の様態である。思惟は延長の肯定である。そして人間の精神は身体の肯定である。
頭がおかしくなりそう。例えば、僕がキーボードを触る。そうすると、キーボードに触れている部分の身体=様態が変状する。(キーボードに触れていない)指a→(キーボードに触れている)指bという風に様態が変化する。そして思惟の属性である限りの神がこの運動を、あるがままに肯定する。指aである神が指bを思惟する。そこに身体感覚が宿る。
よくわからない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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