サルトルと坐禅と友と罪
人間は過去に本質がある、とサルトルは言う。猫が鼠を見ると必ず追いかける本質があるように、人間は過去の条件付けによって、行為が規定されている。過去は一つの「モノ」となって、人間を動機づける。しかし「現在」が過去を無化していくことによって、人間は自由を得る。「現在」と「過去」の間に「無」があり、現在の行為は「無」からの自由な行為となる。
勿論これは机上の空論だ。過去と現在の間に裂け目はなく、人間は習慣通りにしか動くことができない。そこに創造性はない。
禅語に「前後際断」というのがある。文字通り、前と後がぶち切れている。天井を見れば天井の様子があり、右を見れば右の様子がある。「眼」は何も記憶しない。頭が記憶する。だから、坐禅によって頭の働きを殺すと、眼の様子だけになり、過去と今がぶちぎれる。そこに自由がある。
友人が、過去の出来事を思い返して、人に対して優しくできなかったと悔いていた。自分を悪人だと認識できるのは、相当に意識が進んでいる。
井上老師の本に、禅宗では懺悔というのは一度しかないと書いてあった。己が死に切る懺悔だけである。己が死ねば、過去もなくなるし、悔いもなくなる。親鸞が、懺悔できないことを懺悔したように、僕は人間に懺悔は不可能だと思う。
過去が死ねば自由になる。過去というのは、端的に存在していない。心を未来と過去からぶちぎる必要がある
勿論これは机上の空論だ。過去と現在の間に裂け目はなく、人間は習慣通りにしか動くことができない。そこに創造性はない。
禅語に「前後際断」というのがある。文字通り、前と後がぶち切れている。天井を見れば天井の様子があり、右を見れば右の様子がある。「眼」は何も記憶しない。頭が記憶する。だから、坐禅によって頭の働きを殺すと、眼の様子だけになり、過去と今がぶちぎれる。そこに自由がある。
友人が、過去の出来事を思い返して、人に対して優しくできなかったと悔いていた。自分を悪人だと認識できるのは、相当に意識が進んでいる。
井上老師の本に、禅宗では懺悔というのは一度しかないと書いてあった。己が死に切る懺悔だけである。己が死ねば、過去もなくなるし、悔いもなくなる。親鸞が、懺悔できないことを懺悔したように、僕は人間に懺悔は不可能だと思う。
過去が死ねば自由になる。過去というのは、端的に存在していない。心を未来と過去からぶちぎる必要がある
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