救い
人間の救われ方には二つある。言葉を絶対化する方法と、言葉を滅する方法である。
言葉=思考は、全て記憶、過去に条件づけられている。イエスやクリシュナ、阿弥陀仏などの観念を絶対化することで、人間は絶対に触れることができる。が、これは観念という媒介を持っているという点で、本当の絶対ではない。例えば浄土真宗では「南無阿弥陀仏」が「色も形もない場所」という絶対の領域から来たものであり、それを信受することで、死後、浄土=言葉のない世界へ行けるとするが、この世では観念である念仏に触れることしかできない。
言葉を滅するということは、全ての概念化をやめるということだ。言葉を絶対化する宗教が押し並べて「過去」の救いの物語を崇めるように、概念=言葉というものは、全て過去である。つまり、過去を滅するということは記憶を消す、ということである。
全ての記憶を消す。原初の記憶、一番初めの記憶を削除する。それは「この身体が私だ」だろう。その生物学的ともいえる条件付けが解除された時、人間は身体から解放され、無、もしくは全になる。
救われたい人は、どちらかの方法をとるしかない。救い、というのは今言った二つの言葉の状態を指す言葉だ。
言葉=思考は、全て記憶、過去に条件づけられている。イエスやクリシュナ、阿弥陀仏などの観念を絶対化することで、人間は絶対に触れることができる。が、これは観念という媒介を持っているという点で、本当の絶対ではない。例えば浄土真宗では「南無阿弥陀仏」が「色も形もない場所」という絶対の領域から来たものであり、それを信受することで、死後、浄土=言葉のない世界へ行けるとするが、この世では観念である念仏に触れることしかできない。
言葉を滅するということは、全ての概念化をやめるということだ。言葉を絶対化する宗教が押し並べて「過去」の救いの物語を崇めるように、概念=言葉というものは、全て過去である。つまり、過去を滅するということは記憶を消す、ということである。
全ての記憶を消す。原初の記憶、一番初めの記憶を削除する。それは「この身体が私だ」だろう。その生物学的ともいえる条件付けが解除された時、人間は身体から解放され、無、もしくは全になる。
救われたい人は、どちらかの方法をとるしかない。救い、というのは今言った二つの言葉の状態を指す言葉だ。
コメントを書く...
Comments