それ自体が目的であるもの
それ自体が目的であるものと言えば、「趣味」があげられるだろう。でも一旦ここでは趣味の話は置いておく。
僕はそれ自体が目的であるものとは、念仏、座禅、人格、であると思う。そして人間はそれ自体が目的であるものに仕えることで人生を凌いでいるのだと思う。法然上人は「念仏申さるるように生きるべし」と言ったし、道元禅師は一生悟った上の修行、つまり一生坐禅することを求めた。念仏とは如来の大行に自分の身体を貸すことであるし、坐禅も似たようなものだと僕は理解している。
念仏、坐禅の他に人格、というものがある。これはカントから学んだ。全ての理性的存在者は手段として扱ってはならず、「目的」として扱わなければならない。僕は無宗教で生きている人はこの原理で生きているのではないかと思う。この前話した女子大生が「人生に意味はないけど、周りの人を幸せにさせたいと思う。それにも意味はないけど」と言っていた。意味もないのに周りの人を幸せにしたいのは、その周りの人の「人格(尊厳と言ってもいい)」がそれ自体で目的であるからだ。
けれど人間は往々にして人間を手段に貶める。自分に他人を仕えさせようとする。だが自分が他人を手段にして自己実現をしたとしても、そのときは無になった他者からの名誉が送られるにすぎない。「自己の人生」というのはそれ自体では目的ではない。なぜならそれは自分の気分次第で壊すことのできる砂の城だからだ。漫画家になりたいと思って他人を蹴落として努力していても、ある日気が変わってニートになりたくなったりする。自己の人生には何にも支えられていない。
自己を手段にして他人の人格に仕える、というのは言い換えれば愛だ。他者を目的として扱う。無宗教者の生きる原理というのはこれの気がする。僕は根が腐っているので念仏をするしかないのだけれど。
僕はそれ自体が目的であるものとは、念仏、座禅、人格、であると思う。そして人間はそれ自体が目的であるものに仕えることで人生を凌いでいるのだと思う。法然上人は「念仏申さるるように生きるべし」と言ったし、道元禅師は一生悟った上の修行、つまり一生坐禅することを求めた。念仏とは如来の大行に自分の身体を貸すことであるし、坐禅も似たようなものだと僕は理解している。
念仏、坐禅の他に人格、というものがある。これはカントから学んだ。全ての理性的存在者は手段として扱ってはならず、「目的」として扱わなければならない。僕は無宗教で生きている人はこの原理で生きているのではないかと思う。この前話した女子大生が「人生に意味はないけど、周りの人を幸せにさせたいと思う。それにも意味はないけど」と言っていた。意味もないのに周りの人を幸せにしたいのは、その周りの人の「人格(尊厳と言ってもいい)」がそれ自体で目的であるからだ。
けれど人間は往々にして人間を手段に貶める。自分に他人を仕えさせようとする。だが自分が他人を手段にして自己実現をしたとしても、そのときは無になった他者からの名誉が送られるにすぎない。「自己の人生」というのはそれ自体では目的ではない。なぜならそれは自分の気分次第で壊すことのできる砂の城だからだ。漫画家になりたいと思って他人を蹴落として努力していても、ある日気が変わってニートになりたくなったりする。自己の人生には何にも支えられていない。
自己を手段にして他人の人格に仕える、というのは言い換えれば愛だ。他者を目的として扱う。無宗教者の生きる原理というのはこれの気がする。僕は根が腐っているので念仏をするしかないのだけれど。
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