人生はなんにもならない
「お寺に参ろうが,念仏申そうが,坐禅しようが,何にもなりはせん。
われわれが一生することはみなこれ無功徳である。
人間,なんぞになると思うてするくらい卑しいことはない。」
「坐禅というものはツミアゲルものではない。親鸞聖人も「ツミアゲル念仏」を捨てられたのじゃ。そうして「ツミアゲル修行」を、真宗では「自力根性」と言う。」
法然上人は、念仏は「不回向」と言われた。普通「行い」というのは何かに「向かって」するものだが、念仏は何かに振り向けてするものではない。20願の念仏は回向の念仏である。こちらで「ツミアゲル念仏」である。18願の念仏はそんなちゃちなものではない。阿弥陀仏=真如が「称えよ」と言っているから称える。ただそれだけ。どこにも向かわない。先ほど引いた引用文の言葉を使うと「無功徳」である。何も指示せず、「南無阿弥陀仏」だけで完結している。この「不回向」「無功徳」の念仏によって、人生が完結している。いきつくところまでいきついている。
無功徳はニヒリズムか?正反対である。ニヒリズムというのは「何かの意味を求めても意味が得られないフラストレーション」である。ニヒリズムというのは「自力根性で生きて、何も得られないやるせなさ」ということである。
無功徳というのは無功徳に落ち着いている。そして完全に「目的」も「意味」もない行為をすることで、垂直の次元が開ける。阿弥陀仏と出会う。「仏に回向しよう」という「下心」「自力根性」が止んだところで、向こうから回向される次元が開かれる。念仏に意味はない。念仏してもなんにもならない。だから、尊い。
「ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる。————道元」
「仏のかたより往生は治定せしめたまふ————蓮如」
なんにもならないことをただする。「只管打坐(道元)」「ただ念仏(親鸞)」そうすると「仏のかたより」の次元が開ける。
われわれが一生することはみなこれ無功徳である。
人間,なんぞになると思うてするくらい卑しいことはない。」
「坐禅というものはツミアゲルものではない。親鸞聖人も「ツミアゲル念仏」を捨てられたのじゃ。そうして「ツミアゲル修行」を、真宗では「自力根性」と言う。」
法然上人は、念仏は「不回向」と言われた。普通「行い」というのは何かに「向かって」するものだが、念仏は何かに振り向けてするものではない。20願の念仏は回向の念仏である。こちらで「ツミアゲル念仏」である。18願の念仏はそんなちゃちなものではない。阿弥陀仏=真如が「称えよ」と言っているから称える。ただそれだけ。どこにも向かわない。先ほど引いた引用文の言葉を使うと「無功徳」である。何も指示せず、「南無阿弥陀仏」だけで完結している。この「不回向」「無功徳」の念仏によって、人生が完結している。いきつくところまでいきついている。
無功徳はニヒリズムか?正反対である。ニヒリズムというのは「何かの意味を求めても意味が得られないフラストレーション」である。ニヒリズムというのは「自力根性で生きて、何も得られないやるせなさ」ということである。
無功徳というのは無功徳に落ち着いている。そして完全に「目的」も「意味」もない行為をすることで、垂直の次元が開ける。阿弥陀仏と出会う。「仏に回向しよう」という「下心」「自力根性」が止んだところで、向こうから回向される次元が開かれる。念仏に意味はない。念仏してもなんにもならない。だから、尊い。
「ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる。————道元」
「仏のかたより往生は治定せしめたまふ————蓮如」
なんにもならないことをただする。「只管打坐(道元)」「ただ念仏(親鸞)」そうすると「仏のかたより」の次元が開ける。
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