絶望と希望の相転移
「(もし永遠の神がないなら)すべては許される。」
「(自分こそが神だという己れの立場を自覚し人神という新しい地位につけば)すべては許される。」——————カラマーゾフの兄弟
何ものも真ではない、一切は許されている————フリードリヒ・ニーチェ
あらゆる価値を無化した徹底的なニヒリズムにおいては、「一切」は「許されている」。全てのものに意味も価値もないのなら、なにをしても許される。自殺してもいい、盗みをしてもいい、殺しをしてもいい。善も悪も「無」だ。
弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐる なりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなわ ち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少・ 善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑ は、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。 しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべ き善なきがゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐ るほどの悪なきゆゑにと云々。—————歎異抄
一切が許されているニヒリズムと、一切が許されている浄土教の立場は、紙一重だと思う。鎌倉時代という激動のニヒリズムの時代に、浄土真宗が興ったのは当然のことなのかもしれない。本当に紙一重だ。ニヒリズムも浄土教も、一切は許されている。ただ、浄土教は弥陀の本願という「意志」の元で一切が許されている。これはある種の積極的ニヒリズムじゃないのか。裁きの不在。
何をしてもいい。善も悪もない。善悪の彼岸にある。
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