救い
救いというのは、なにかしら実存的な、しかもスケールの大きい計画(物語という言い方が僕は嫌いである)に、コミットすることである。その計画は、スケールの大きい物語でなくてはならない。この世界でアイドルになる、などという計画は、救いにはならない。なぜなら欲望は塩水の如くであり、世界は無常であるから。これはブッダが明らかにしてくれたことである。
スケールの大きい計画とは何か?それは「生死」を超えたものである。歴史は生死を超えている。だから、古代の中国人は、自分の人生よりも、歴史に名を刻むことを善とした。けれども、歴史はまだ無常の嵐からは逃れられていない。ある程度大きな計画だが、まだ完全なスケールではない。
宗教がそうだろう。宗教は、人知を超えた計画である。生死も歴史も超えている。人知を超えた計画に、自分の実存を賭けられたら、それは救いだ。それがキリスト教であっても仏教であってもイスラム教であってもスピリチュアリズムであってもなんでもいい。僕は救いが欲しい。
スケールの大きい計画とは何か?それは「生死」を超えたものである。歴史は生死を超えている。だから、古代の中国人は、自分の人生よりも、歴史に名を刻むことを善とした。けれども、歴史はまだ無常の嵐からは逃れられていない。ある程度大きな計画だが、まだ完全なスケールではない。
宗教がそうだろう。宗教は、人知を超えた計画である。生死も歴史も超えている。人知を超えた計画に、自分の実存を賭けられたら、それは救いだ。それがキリスト教であっても仏教であってもイスラム教であってもスピリチュアリズムであってもなんでもいい。僕は救いが欲しい。
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