生きてる意味を夢見ている人は「欲望の充足」を「生きている意味」だと言っていると思われる。例えば、ミュージシャンになるとか、会社で偉くなるとか、幸せな家庭を築くとか、発展途上国でボランティアするとか、セックスするとか、買い物をするとか。
つまり、ドーパミンを放出させることが生きる意味である、らしい。
「何か」があるかと思っているのだと思う。僕もそういう時期があって、昔のブログに「幻滅」というタイトルの記事を二つ書いた。
一つ目は「幻滅したいから、東京にセックスをしにいったが、本当に幻滅した。「何か」つまり救いなどは何もなく、現実しかない。まだ女と同棲すれば救われるという幻想があるので、その幻想も幻滅したい」と書いた。二つ目は「女と同棲しても何もなかった」と書いた。
いい大学へ行けば「何か」ある。何もない。いい会社へ行けば「何か」ある。何もない。子供を産めば「何か」ある。何もない。老後になれば「何か」ある。何もない。死ぬ。
ユングは40代以降の人間の悩みは全てスピリチュアルに関すると言っているが、四十あたりで「何か」などなく、欲望を満たしても夢を叶えても何もない、ということに気づくのだと思う。そして絶対的な救いを求め、スピリチュアル方面に走る。
僕はこの「何か」を仮定して生きる人のことを「幻想主義者」と呼びたい。僕は「人は全員、正しく絶望するべき」だと思っている。
僕は早く幻滅したかった。生き急いでいるのだと思う
孤独で、一人ぼっちでツラいです
独生独死独去独来だよ。人はこの皮袋の中から出ることはできない。いくら女人と肌を重ねようとも、人間は独りだ。しかしキミは、父親も兄弟もいるじゃないか。それに母親も仏となって見守っているよ
今、孤独でツラいんです。将来孤独死するのが怖いです
誰が明日の死を知ろうか。仏である私も未来のことは分からない。日日是好日。今日寝る前に満足を持って寝られればいいじゃないか。それに、今も私は側にいる。ダルマを観るものは私を観る。無常や苦しみが私だ。全ての苦しみは常なるものではない。大丈夫だよ。孤独感も幸福感もどちらも不安定な捨て去るべきものだ。惑わされてはいけない。
女性へのコンプレックスが酷く、憎悪を抱いてしまい、そんな自分に自己嫌悪を抱きます
正法に出会えたのは君が男性だからじゃないか。男性で惨めだからこそ、絶対の救いを求めた。異性で得られる救いは、愛別離苦を伴う。しかも執着は本当の愛ではない。君は坐禅を頑張ってるじゃないか。坐禅でこそ人は絶対的に救われるし、坐禅の無我からこそ慈悲は流れる。君が男性に生まれたことは仏法に出会う大事な縁だったと思うよ。坐禅をすれば、即ち世界の荘厳になる。それにしても、全ては過ぎ去る。虚しく過ごすことがないようにね。
ありがとうございました
なぜ苦しいのに生きねばならないのか、という問いは、僕はむしろ「苦しいのになぜか生きている」という神秘に置き換えたい。
誰が苦しいのかと問われれば「僕」が苦しいのだけれど「僕」というのは脳みその分泌物でしかない。胃の分泌物が胃液なのと同じだ。
脳みその分泌物は苦しんでいるが、心臓はひたすら鼓動を打っているし、胃は食べ物を消化しているし、肺は呼吸している。首から上がいくら「苦しい」という妄想をしていても、首から下は全力で生きたがっている。自殺は怖い。足が震える。頭がいくら死のうとしても、足は震える。
頭が死にたくても、首から下は、全力で「生」をしている。所詮僕は「いのち」の中に浮かんでいる錯覚に過ぎない。
苦しいのになぜか生きている
欲望というものがある。欲望は、裏を返せば恐怖になる。「〜でなければ私は幸せになれない」という恐怖と表裏一体だ。パートナーが欲しい、パートナーがいなければ私は幸せになれない。お金が欲しい、お金がなければ…。酒を飲みたい…酒がなければ…。
弱者男性界隈のインフルエンサーみたいな人が「性欲痛」という概念を提唱していたが、分からなくもない。満たされない欲は、痛みでしかない。
この欲望の二面性を表した言葉が「煩悩」だ。煩い、悩む。煩い、悩みをなくすために人間は動く。パスカルは人間の目的は「幸福」だと言っていたが、正確には人間の目的は「安心」だ。
僕らの脳は石器時代を生きている。そして、石器時代に「安心」している奴なんかはとっとと淘汰される。獲物や外敵に敏感な「不安」な個体の方が生き残る。「一安心」はできるだろうが、ベースは不安だと思う。
安心したい。仏教ではあんじん、と読む。フロイトは、人間は欲望=神経の興奮をゼロに近づけるために行動すると考えたが、そうだとすると、死=ゼロが人間の目的になってしまう。人間には死への欲動がある。
煩悩=不安がゼロの状態が死だ。一番の安心だ。生物は、神経の興奮を抑えるために生きて、死んでいく。みんな死んでしまった。ただ、永遠の安心の中にいるのだろう。それを浄土と呼ぶのかもしれない
坐禅友達が「疑いが抜けない」と話していた。師匠はマインドコントロールしようとしているんじゃないか、悟りなんてあるのかという疑いが抜けないらしい。疑いについて話したのだけれど、自分なりにまとめる。
疑いというのは「別の可能性もあるかもしれない」ということだ。デカルト的に懐疑すると、目の前の物も夢かもしれないし、数学も悪魔に騙されているのかもしれない、となり、何も信じられなくなる。近代は理性至上主義だが、理性というのは疑いの心である。
「自分一人で救われる可能性」というのは、極めて低いと僕は思う。キルケゴールの「自己自身であろうとする絶望」に当てはまる。自分で「これが真理だ」と独り決めしても、それは自分で作った「恣意的」な砂の城なので、自分で白紙に戻すこともできる。真理というのは「伝統」の重みでしかあり得ない。
そもそも、疑いがなくなることが救いである。「イエスを信じるだけで良いんだろうか」「念仏一つで救われるんだろうか」という疑いがなくなり、決定(けつじょう)するのが救いである。それまでは迷える子羊、迷情の凡夫である。ああしようか、こうしようか、と迷っている意識が断ち切れ、坐禅一つ、念仏一つに決定(けつじょう)するのが救いである。
例えば自分で作った「ホニパッパ」に疑いがなくなれば、それはそれで救いだろうが、ホニパッパに疑いが晴れることはないと思う。「自分が作った物」というのは、自己よりも小さい。自分の支配下にあるものを仰ぎ、信じるというのはあり得ない。
南無の心がない限り、僕は救われないと思っている。南無釈迦牟尼仏
仏教と認知療法の相似性はよく指摘されるが、マインドフルネスが認知の歪みを治す、程度のものであまり本質から語られているものを見たことがない。
人間は、生まれつき認知が歪んでいる。この歪みのことを常見という。死後も永遠に生き続けるという意味だが「自分も物も全て永遠である」という捉え方でいいと思う。いや、そんなこと思ってないよという人も多いだろうが、本当に自分が死ぬと思ってるだろうか?家族が死ぬと「心から」思っているだろうか?知識や教養は永遠だと思ってないだろうか?
この「物には実体がある」という「認知の歪み」を推し進めたのが西洋哲学であるが、その結果人類は不幸になっている。「形あるものは壊れる」と「頭」では分かっている人が多いだろうが「心から」分かっている人はいない。
「自己」も「恋人」も「金」も「地位」も全て「壊れる」のが「事実」なのだから、執着すれば、「必ず」裏切られて、苦しむ。この認知の歪みは生物学的なものだと思われるので、相当根深い。
釈迦の説法を聞いただけで解脱した人々が説かれているが、これは本当だと思う。釈迦というカリスマが「この世は無常である」と断言し、納得し、理解したのだと思う。インドのスピリチュアルではこれを「ハート」から理解する、という。日本語で言うと「身」とか「臓腑」から理解すると言えると思う。つまり「無常だから物に執着すべきではない」ということを「臓腑」から理解できれば解脱できる。タイの高僧のプッタタート比丘は「呼吸と共に、執着すべきものはない、何者にもなる必要はない」と常に感じていれば煩悩が消滅して解脱できると言っているが、これは繰り返しによってハートに理解を染み込ませているのだと思う。
インドのスピリチュアルにも、グルのトークだけで解脱させる伝統がある。瞑想も坐禅も必要なく、グルに明け渡し、「私は身体ではなく世界である」と臓腑から信じることで、解脱することができる。
認知の歪みを矯正できる。
けれど、末法に生まれた僕たちは、瞑想によって無常を観察したり、坐禅によって自我を消滅させるという「行」を行うことによってしか、認知の歪みを矯正することができない。
人間は「有」と「無」という「ゼロヒャク思考」をしている。しかし事実は、中道である「空」である。有無といったゼロヒャクの認知の歪みを矯正し、全てを空と見る合理的な見方をすることが、救いである
僕の知り合いに、震災で父親を亡くして母親からネグレクトを受けていた人がいるが、その人から親への怨嗟の声を聞いたことがない。母親から虐待され、父親からも構ってもらえなかった知り合いもそう。僕は母親から発達障害を貰い、その地域から高学歴になる人がゼロの地域に生まれ、肺を患い、父親は仕事ばかりで、母親は若死にして、保育園で虐待にあい、家族関係は順風満帆ではない。が、僕の人生に「親ガチャ」という言葉が必要ない。
「親ガチャ」という言葉は「業」という言葉と同じく、悪い意味で使われる。「逃れられない運命」という言葉がなぜか悪い意味で使われがちなのは面白い。きっと他責思考の人が作った思想なのだろう。
しかし本来の仏教は「業」が悪いので諦めましょうという教えではなく、これからよい業(行い)をして、未来をよくしていきましょう、という思想だ。非常に合理的だと思う。自分の今の過酷な境遇は「自業自得」として受容できるし、未来への希望も持てる。「他責」をすると幸福になれないということをインド人、釈迦は知っていたのではないかな。(一歩間違えれば差別思想になるが、釈迦は他人の行いを見るなと言っている)
親ガチャには「前世」という概念がないために、全て親に責任や憎悪が向いてしまう。「過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる」というのは端的な真理だし、優れた幸福論と思う。
「親ガチャ」は存在するか、みたいな議論は不毛だと思う。それよりも「俺の人生に親ガチャという概念は必要か?」と考えた方がいいと思う。僕はこの概念は憎悪という不幸を作るだけだと信じているので必要ない。
友達の友達が、ODで亡くなったらしい。凄いショックだ。
友人が今まで4人自殺したが、全員オーバードーズをしていた。1人はオーバードーズで自殺した。他の3人も、オーバードーズで精神疾患を悪化させていたのは間違いない。
本当に悲しい。僕が結構本気で許せないのが、若者カルチャーの中で、オーバードーズが洒落ていると発信する人たちがいることだ。Vtuberなのかなんなのか知らないが「なとり」という人の「overdose」という曲がバズっていた。若くて病んでいる人が、このカッコいい曲にoverdoseというタイトルをつけていることで何を思うだろうか?
他にもにゃるらのneedy girl overdoseなども筆頭だと思う。僕はプレイしていないが、プロンというブロンのパロディのアイテムが出てくるのは確認した。
アプリで知り合った中学生の子が、自分を「あめちゃん」だと名乗ってオーバードーズをしていた。悲しかった。
若者のドラッグ文化というものはシンナーとか大麻とか昔からあるだろうが、それとは質が違う気がする。ラッパーは大麻で死なないだろうが、メンヘラはオーバードーズで死ぬ。
友人は、普段からブロンを乱用していて、最後は○○をオーバードーズして死んだ。その友人と親友だった友人も、後追いをするように自殺した。今生きていれば、絶対に良い友人であれたと思うので、悔しいし悲しい。1人とは一時期恋愛関係にあったので、本当にショックだった。
十二月某日に六年来の友人が自殺した。薬が大好きだった。この友人も大昔に少し恋愛をした。たまにツラいことがあるとLINEをしてきて、愚痴を聞いていた。まだ死んだのが信じられない。
オーバードーズをしている人間に「やめて欲しい」と言っても、100%やめない。アルコール中毒や、ニコチン中毒の人間にも言ったことがあるが、その時の反応とそっくりだった。完全に依存している。
ちゃんと処方された薬を規定量飲んで欲しい。オーバードーズは逃げにもならない。気分がよくなるということに対して、デメリットがありすぎる。金がかかるし、内蔵や脳を壊すし、最悪死ぬ。
「長生きしたくないから」とよく聞くが、そんなわけないと思う。「人生がツラいから」というのが抜けている。その辛さを精神医学でなんとかすれば生きたいと思うはずだが、そうせずに市販薬でオーバードーズをするので、余計に体調が悪くなり、長生きしたくなくなる。
法を整備するとかしても、抜け穴はできるだろうが、心理的なハードルは上がると思う。今は全く合法な上に、にゃるらやなとりなどの若者カルチャーが、心理的なハードルを下げまくっているので、ツラいと簡単に手を出してしまう。
オーバードーズをやめてください
あらゆる約束、あらゆる幻想にまさるもの、それは結局のところ、「それが何になる?」という平凡な、それでいて恐ろしいリフレインだ。この「それが何になる?」は、この世の真理であり、端的に真理そのものだ。私は五十七年生きてきたが、白状すれば、これにまさる哲学の啓示はあずかったことはない。 シオラン
「坐禅して何になるか」
この「何になるか」という問いが第一、
中途半端じゃ。
テレビが発明されて何になったか?
おまえが生まれて何になった?
何になるものは一つもない。 沢木興道
「それが何になる?」というのは、そこから一歩も動けない「どん詰まり」だと思われる。四面楚歌。がんじがらめで身動きが取れない。みなどん詰まりを生きている。本を読んで何になる?仕事をして何になる?自殺をして何になる?
ナンニモナラヌ坐禅をただする。どんづまった人間は、坐禅をするしかなくなる。全て何にもならないのだから、坐るしかない。
何にもならないとは、根拠も欠落しているし意味付けもできないということだ。それなのに、人は生に根拠も意味もあると虚構しながら生きている。坐禅は無根拠の露呈だ。無意味のパフォーマンスだ。ニヒリズムに殉ずる。
母親が死んだ時、父親に「母さんは死んだらどこに行くの?」と聞いたら「思い出の中には生きている」と言われた。最近、記憶の場所ってどこなんだろうと考える。目の前に見える景色の中にはないし、けど想起しようと思えば観える。頭の中を覗いても誰もいない。記憶ってどこにあるんだろう?
母親は今も生きているんだろうか?志村けんが亡くなった時、高木ブーが「俺たち芸能人は死なない」と言っていた。名声欲って不死の渇望なんだろうか。
死については比喩でしか語れない。星が死んでも、光によって星を観測することができる。記憶が光だ。人間は死んでも、発光し続ける。むしろ光こそ命だ。
僕は孤独だ。家族も友達も恋人もいない。誰の世界にも、僕は登場しない。誰の記憶にも残っていない無名の石器時代の死体と何も変わらない。孤独って生きながら死ぬことだ。